こんにちは!
今回は、ゴッホの弟テオ、ロダン、マネとモネのエピソードです。
早速見ていきましょう!
モネとテオとロダンとマネ
前回のおさらい
モネの絵がアメリカで人気になりますが、モネはあまり喜んでいない模様…。
ゴッホの弟テオに絵を売る
クロード・モネ《アンティーブの朝》1888年
モネ48歳のとき、フランス南部のコート・ダジュールのアンティーブに滞在し、30点ほど制作しました。
クロード・モネ《ジヴェルニーの積みわら、夕日》1888-1889年
夏頃から連作「積みわら」に着手しました。
上の作品は、埼玉県立近代美術館所蔵です。
クロード・モネ《ハーグ近郊のチューリップ畑》1886年
ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホ(ゴッホの弟テオ)に作品を売りました(上の絵はその1枚)。
テオはモンマルトル大通りの展示室で『アンティーブの海の風景』と題する10点の作品を展示し、モーパッサン、マラルメ、ギュスターヴ・ジェフロワらから高い評価を得ました。
一方、テオとの取引は、デュラン=リュエルとの関係を一層悪化させ、モネはデュラン=リュエルとの契約を解消してしまいました。
初の「連作」
クロード・モネ《クルーズ峡谷(灰色の日)》1889年
49歳のとき、クルーズ峡谷フレスリーヌへの旅行では、20点ほどの作品を制作しました。
そのうち9点はほとんど同じ構図で、光の効果だけを変えてクルーズ峡谷を描いたもので、モネ自身が初めて「連作」という言葉を使っています。
アリスへの愛
このように各地に制作旅行に出かけている間も、アリスとの関係は深まっていき、ボルディゲーラ、アンティーブ、フレスリーヌといった旅先から、アリスに愛を告白する手紙をたびたび送っています。
クロード・モネ《エプト川での舟遊び》1890年頃
また、ジヴェルニーに帰ったときには、アリスの娘たちをモデルに、上の絵や、下の絵を描きました。
クロード・モネ《パラソルを差す女(右向き)》1886年
クロード・モネ《パラソルを差す女(左向き)》1886年
ロダンとの2人展
クロード・モネ《舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)》1887年頃
ジョルジュ・プティ画廊で、モネが以前から待望していたロダンとの2人展「モネ・ロダン展」が実現しました。
2人はなんと同い年でした。
モネの1864年から1889年にかけての作品145点を一堂に集めた展覧会であり、大成功を収めました。
ブッソ・ヴァラドン商会との契約は解消し、デュラン=リュエルとの取引を再開しました。
しかし、契約は結ばず、複数の画商に値付けをさせ、競争させるという手法をとりました。
マネの「オランピア」を国に残そう!
エドゥアール・マネ《オランピア》1863年
パリ万国博覧会に合わせて開かれたフランス美術100年展に、モネの作品3点が展示されました。
この展覧会には、亡きマネの《オランピア》も展示されていました。
しかしこの作品がアメリカに売られることになっていることを聞いたモネは、制作活動を中断し、募金で《オランピア》をマネ未亡人から購入してルーヴル美術館に寄贈しようという運動を始めました。
元美術大臣アントナン・プルーストやゾラの反対に遭いましたが、モネは、2万フランを集め、約1年後、国のリュクサンブール美術館に収蔵させることに成功しました。
次回は、モネ、連作をたくさん描くようになる。です。
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