こんにちは!
今回は、キスリングについてです。
早速見ていきましょう!
モイズ・キスリング(1891-1953年)
モイズ・キスリング《パイプを持った自画像》1918年頃
モイズ・キスリングは、ポーランド生まれのエコール・ド・パリ(パリ派)の画家です。
画家へ
オーストリア=ハンガリー帝国、クラクフ大公国の首都クラクフで、ユダヤ人として生まれました。
地元の美術学校で、印象派の影響を受けたユゼフ・パンキエヴィッチに師事しました。
19歳のとき、パリに出て、モンマルトルで画家として本格的に絵を描き始めました。
ピカソたちのアトリエ「洗濯船」
モイズ・キスリング《果物のある静物》1914年
21歳のとき、ピカソ、ブラックらの活動拠点モンマルトルのアトリエ「洗濯船」に移り住みました。
同年、サロン・ドートンヌとアンデパンダン展に出品しました。
23歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、自ら志願して外人部隊に従軍しました。
24歳のとき、ソンムの戦いで重傷を負い、兵役を解かれてスペインで療養しました。
その功績により25歳のとき、フランス国籍を得ました。
結婚
モイズ・キスリング《サン=トロペでの昼寝(キスリングとルネ)》
25歳のとき、ルネと結婚し、2人の息子が生まれました。
キスリングは、モディリアーニ、パスキンなど、多くの友人がいました。
画家としての成功
モイズ・キスリング《レモンのある静物、緑の背景》1916年
28歳のとき、ギャルリー・ドリュエにて個展を開催し、好評でした。
20後半には、画家として成功し、パリ派の陽気で面倒見の良いリーダーで、「モンパルナスの帝王」とも呼ばれていました。
パリ派の画家といえば、モディリアーニ、ユトリロ、パスキンなど、破滅型の画家が揃っていますが、キスリングはその中では珍しく、生前から高い評価を得て幸せな生涯を送りました。
モンパルナスの女王
モイズ・キスリング《赤いセーターと青いスカーフのモンパルナスのキキ》1925年
34歳のとき、伝説の女優で歌手の「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランを描きました。
モイズ・キスリング《花》1929年
モイズ・キスリング《スウェーデンの少女、イングリットの肖像》1932年
亡命
モイズ・キスリング《マルセイユ》1940年
第二次世界大戦勃発後、49歳のとき、再び志願して従軍しました。
フランス降伏後に、ナチスのユダヤ人弾圧を逃れるためにアメリカに亡命し、ニューヨーク、ワシントンD.C.で展覧会を開いた後にカリフォルニアに住みました。
モイズ・キスリング《ミモザ》1945年
モイズ・キスリング《肖像画》1946年
終戦後、55歳のとき、フランスに戻りました。
62歳のとき、南フランスヴァール県の港町サナリー・シュル・メールにて亡くなりました。
まとめ
・キスリングは、メランコニックな女性の肖像画を描き、成功した画家