ルノワール「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」を超解説!この子の性別はどちらでしょうか?

こんにちは!

今回は、ルノワールの《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》を解説します。

早速見ていきましょう!

シャルパンティエ夫人とその子どもたち

ピエール=オーギュスト・ルノワール《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年

異例の大ヒット作

ルノワールの出世作であり、 最良の作のひとつでもあるこの幸福感あふれる家族像は、当時としては異例の1000フラン(約100万円、500フランという説も)という報州を彼にもたらしました。

ちなみにこの絵は29年後、8万400フラン(約8400万円)に高騰し、ルノワールの市場価値を引き上げる役割も果たしたといえる作品です。

サロンでも好評

本作は、1879年のサロンに入選し、批評家たちから「もっとも心惹かれる作品の一つ」と賞賛され、絵の前には大勢の観衆が集まり好評を博した作品でした。

会場内でルノワールへの賞賛を聞いた友人の画家ピサロは、「ルノワールは成功したようだ。よかった。貧乏ってやつは辛いからね…」と書いた手紙が残っています。

シャルパンティエ夫人

 

衣装は大胆な筆致ですが、顔はかなり丁寧に描かれており、「肖像画」として仕上がっています。

モデルになった富裕な出版業者「ビブリオテーク・シャルパンティエ」のオーナーの妻シャルパンティエ夫人は、社交界の華でした。

シャルパンティエ夫人(マルグリット)の父は、ナポレオン3世御用達の宝石商ルモニエだったこともあり、社交界に顔がききました。

シャルパンティエ夫人とは、1875年に出会い、パリ随一の社交場だった自宅のサロンにルノワールを招きました。

この文芸サロンで、後にモデルとなるジャンヌ・サマリーと出会いました。

他にもゾラ、フローベール、ドーテ、モーパッサン、マラルメ、ゴンクールといったそうそうたる文学者たちの目にも直接触れ、たちまち評判を呼んで、肖像画依頼が殺到するようになりました。

この絵が描かれたとき、シャルパンティエ夫人は30歳、夫は32歳だったことから、若くして成功していたことがわかります。

男の子?!

 

中央に座っているのはこの家の長男、3歳のポールです。

これは世界各国で見られる風習ですが、この時代でも男児は3〜6歳頃まで女児服を着せされていました(日本でも)。

というのも当時は、女児の方が幼児生存率が高かったため、女装は、一種の魔除け的な意味合いがありました。

 

長女のジョルジェットは6歳でした。

ルノワールの描く子供の愛らしさは、常に賞賛を得ました。

よくしつけられた犬

 

吠える様子もなく、よくしつけられた犬は、当時のブルジョワジーのステータスシンボルでした。

描かれているのはニューファンドランド犬だと考えられています。

カナダのニューファンドランドが原産地で、大きな体格で落ち着きがあり、辛抱強いため救助犬として活躍していました。

ザ・ブルジョワジーな絵

 

典型的なブルジョワジーの邸が描かれており、東洋風の小物も飾られています。

1855年と67年にパリ万博が開かれた時に紹介された日本の美術、伝統工芸品が絶大な人気を博しました。

富裕層の間では、日本の浮世絵や装飾品を自宅に置くことが流行していました。

 

日本風の屏風が飾られています。

サロンを意識した作品

 

パトロンであるシャルパンティエ夫人に気に入ってもらい、サロンでの成功を勝ち取ることを意識したルノワールは、この絵を極めて注意深く、緻密に仕上げています。

画面の主役である夫人を三角形の頂点に置き、安定感のある伝統的な三角形の構図で描いています。

また、絵のサイズもそれまで手掛けた作品のなかで最大です。

本作の出来栄えにシャルパンティエ夫妻は大いに喜び、印象派展ではなくサロンへの出品をルノワールに勧めました。

そしてこの絵の完成の翌年1879年、この絵はサロンに入選したばかりか、会場の目立つ場所に飾られました。

この措置は、名士であるシャルパンティエ氏の顔を立てたアカデミー側の配慮だったそう。

どこに飾られるかで注目度は全然違います。

当時の人々はまだ、ルノワールの大ぶりなタッチに見慣れていませんでしたが、あのシャルパンティエ夫妻が評価し後援している画家なのだから、すばらしい画家なのだろうと、非常に好意的に受け止めました。

その他の絵

ピエール=オーギュスト・ルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》1876年

シャルパンティエ家の肖像画として最初に依頼された作品で、4歳のジョルジェットが描かれています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《シャルパンティエ夫人》1876-1877年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ポール・シャルパンティエ》1887年