こんにちは!
今回は、誰もが謎にフルネームで名前を言える画家、レオナルド・ダ・ヴィンチです。圧倒的知名度!
早速見ていきましょう!
目次
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519年)
レオナルド・ダ・ヴィンチ《自画像》1517-1518年頃
レオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアのルネサンス期の画家です。
ヴィンチ村の…
1452年、フィレンツェ郊外のヴィンチ村で、有能な公証人の父ピエロと、農家の娘ではといわれている母カテリーナの間に、非嫡出子として生まれます。
レオナルドの姓「ダ・ヴィンチ」は「ヴィンチ村の」という意味です。
父、16歳の娘と結婚する
父ピエロはその後、レオナルドの母と結婚することはなく、別の16歳の娘アルビエラと結婚し、5歳のレオナルドを引き取ります。
アルビエラはレオナルドを可愛がりましたが、彼女は若くして亡くなってしまいます。
父ピエロは、生涯で計4回結婚し、12人の子供をもうけています。
最後の子供が生まれたのは、77歳のときだったとか…。
父親は、レオナルドを祖父に預け、ほとんど教育を受けずに野放しでしたが、レオナルドの柔軟な思考はこの自由な少年期のおかげとされています。
不気味な絵を描く
父ピエロが、知り合いの農夫から楯に絵を描いて欲しいと依頼されます。
そこでレオナルドに絵を描かせたら、何とびっくり火を吐くモンスターを描きます。
なんとも不気味な絵でしたが、あまりの上手さに、農夫にあげるのではなくて、売ってしまいます。
農夫には矢がハートに突き刺さった装飾のある楯を購入して渡したんだとか。(笑)
ただ、この話もヴァザーリ(芸術家の伝記を盛りまくって書いた人)が言っているだけなので、作り話な気がします。(笑)
師匠より絵がうますぎて…
アンドレア・デル・ヴェロッキオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ《キリストの洗礼》1470-1475年
レオナルドの才能に気付いた父親は、14歳のレオナルドを、フィレンツェで最も有名なヴェロッキオ工房に弟子入りさせます。
左がレオナルド、右がヴェロッキオが描いた天使です。
その他にも、風景や岩、キリストの大部分もレオナルドが描いたと考えらています。
レオナルドの絵がうますぎて、ヴェロッキオは二度と絵を描くことがなかったと、(話をよく盛る)ヴァザーリが言った話が有名ですが、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するために絵を描くことをやめたのが実際のところのような気がします…。
20歳で一人前の画家に
レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472年
20歳で一人前の画家として登録されます。
上の絵は、初めて1人で全部描いた記念すべき絵です。
西洋絵画史上初の風景画
レオナルド・ダ・ヴィンチ《アルノ川渓谷の風景素描》1473年
21歳のとき、西洋美術史上初といわれる風景画を描きます。
その後、父親がレオナルドに工房を与えて、ヴェロッキオから独立します。
美少年を集めた工房
美青年が大好きなレオナルドは、自分の工房に多くの美青年を集めました。
才能よりも顔です。
なので、レオナルドの工房から有名になった画家というのは特にいません。(笑)
同性愛説
レオナルド・ダ・ヴィンチ《東方三博士の礼拝》1482年
1476年、24歳のとき、レオナルドが、当時有名だった男娼と揉め事を起こし、同性愛の容疑をかけられたが放免されたという、フィレンツェの裁判記録が残っています。
当時のフィレンツェでは、法的に同性愛が禁止されていました。
この一件から、レオナルドに同性愛者の傾向があり、可愛がっていた弟子サライとメルツィとの関係も、師弟関係を超えた親密さだったのでは?と、何かと話題になっています。
聖母子像
レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》1483-1486年
この時期のレオナルドは、聖母子像などを数多く描いていました。
フィレンツェを離れ、ミラノのスフォルツァ家に行きます。
手稿
レオナルド・ダ・ヴィンチ《ウィトルウィウス的人体図》1487年頃
このとき、あの有名な手稿(手書きのメモ)を書き始めます。
13,000ページもあるそう!!
手稿には、日々の暮らしや、興味を持ったことや、科学や工学に関する研究など、いろんなことを書いています。
そのほとんどが鏡文字(左右反転した文字)で記されています。
レオナルドの手稿のひとつ「レスター手稿」は、ビル・ゲイツが持っています。
16年かけて未完成
ルドルコ・スフォルツァから、「父の騎馬像を作ってほしい」と依頼されます。
気合を入れすぎたのか制作に16年かかり、未完に終わります。
支払いもしてもらえず…
最後の晩餐
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1495-1498年
43歳のとき、《最後の晩餐》を描き始めます。
テンペラ(顔料+卵黄)という技法で描かれているので、発色は鮮やかだけど、顔料が剥離しやすく、現在では、かなりボロボロです…。
ミケランジェロとの幻の競作
ピーテル・パウル・ルーベンス《アンギアーリの戦い》の模写1603年頃
スフォルツァ家はフランス軍に攻撃され破滅します。
パトロンを失ったレオナルドは、再びフィレンツェに戻ります。
51歳のとき、フィレンツェ市からの依頼で、市庁舎大広間の壁画《アンギアーリの戦い》を描きますが、こちらも未完に終わります。
このとき28歳のミケランジェロと競作し、その姿を20歳のラファエロが見学しに来ていたんだとか。
残念ながらこの壁画は残っていませんが、ルーベンスの模写が残っています。
モナリザ
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年
世界で最も有名な絵《モナ・リザ》を制作します。
謎多き名画ですね!
詳しい解説はこちら↓
最も高額な保険金が付けられた絵画作品として、ギネス世界記録に載っています。
フランス王に愛された晩年
54歳のとき、フランス王ルイ12世に招かれ、ミラノに行きます。
61歳のとき、ジュリアーノ・デ・メディチに招かれローマへ行きました。
64歳のとき、フランス王フランソワ1世に招かれ、アンボワーズのクルー城で隠居生活をおくりました。
67歳のとき、フランス王に看取られ、亡くなります。
(※フランス王に看取られて…の部分は、史実ではなく作り話説の方が濃厚ですが、フランス王から寵愛されていたのは本当です)
まとめ
・レオナルドは、画家としても科学者としても発明家としても有名 ・どの絵画作品も、全て傑作だと見なされている