こんにちは!
今回は、レンピッカの娘キゼットについてです。
早速見ていきましょう!
レンピッカと娘キゼット
タマラ・ド・レンピッカ《キゼットの肖像》1924年
レンピッカ21歳のとき、娘キゼットが生まれました。
タマラ・ド・レンピッカ《ピンクの服を着たキゼット》1926年頃
タマラ・ド・レンピッカ《バルコニーのキゼット》1927年
子供の世話をするようなタイプじゃない
《初めて聖体を拝領する少女》1929年
大人気肖像画家として多忙を極めたレンピッカは、娘のキゼットとも滅多に会いませんでしたが、キゼットの絵はよく描きました。
上の絵もキゼットがモデルです。
ちなみにキゼットは、母親のレンピッカより、父親のタデウシュの方が好きだったそう。
レンピッカの母が面倒を見た
タマラ・ド・レンピッカ《緑の服の女》1930年
キゼットはフランスやイギリスの全寮制学校に入れられましたが、家族といる時は、祖母のマルヴィナ(レンピッカの母親)と過ごしました。
レンピッカ31歳の年のクリスマス、母親と娘の元に戻りませんでした。
というのも、この年、レンピッカは、豪華客船に乗ってパリを離れ、アリメカの若い金持ちの婚約者の肖像画を描きに行っていました。
3週間の滞在のはずが、3ヶ月も延期します…。
そんなレンピッカに対して母親は激怒し、レンピッカが大好きでたくさん収集していたデザイナー帽子を全て燃やし、キゼットは帽子が1つ1つ灰になるのをじっと見ていたんだとか…。
タマラ・ド・レンピッカ《眠っているキゼット》1933年
タマラ・ド・レンピッカ《眠っているキゼット》1975年
43歳のときには、ナチ占領下のパリにいた娘キゼットをリスボン経由で救い出しました。
娘をパシる
65歳のとき、キゼットとその家族(キゼットの夫はハロルド・フォックスホールという人物で、ダウ・ケミカル社の地質学者の主任。夫婦には二人の娘がいた)の住む、テキサス州ヒューストンに移り住みました。
そこでしばらく経った頃、彼女は自己中心的でわがままを言い始めます。
キゼットは彼女の経営管理者兼秘書、さらには雑用をさせられることになり、彼女の支配と短気なふるまいに苦しめられました。
一方、彼女は彼女で、「古き時代」は絵の具などの画材が粗悪だっただの、1970年代の人間は才能と「育ち」が欠如していて自分の芸術がわからないだの、不平をこぼしまくっていましたが、全盛期の筆力と技巧を二度と取り戻すことはできませんでした。
最後は…
80歳のとき、年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすため、メキシコのクエルナバカに移住しました。
キゼットは夫を癌で失った後、母親の元に行き、1980年3月1日、81歳でレンピッカが永眠するまでの3ヶ月間、付き添いました。