瞑想的?静寂さを感じる静物画を描いた画家モランディを超解説!

こんにちは!

今回は、モランディについてです。

早速見ていきましょう!

ジョルジョ・モランディ(1890-1964年)

ジョルジョ・モランディ《自画像》1924年

ジョルジョ・モランディは、イタリアの画家です。

絵が好き

イタリア北部ボローニャで5人兄妹の長男として生まれました。

父親は、会社を経営していました。

子供の頃から絵を描くことが大好きでした。

しかし、父親は長男のモランディに会社を継がせたいと考えており、絵の勉強をしたいというモランディの考えに反対しました。

16歳のとき、父親の会社の見習いになりました。

それでもどうしても絵の勉強がしたかったモランディは、なんとか父親を説得し、翌年会社を辞めました。

画家の道へ

17歳のとき、創立300年のボローニャの美術アカデミーに入学しました。

ここに6年間在籍しました。

19歳のとき、父親が亡くなり、3人の妹と母親との4人暮らしになりました。(次男は11歳で亡くなっています)

にぎやかな職人街フォンダッツァに引っ越しました。

ジョルジョ・モランディ《風景》1911年

本当はパリで勉強したいと考えていましたが、生活のため諦めました。

その代わり、本でフランスの新しい絵画、印象派などを知り、大きな影響を受けました。

23歳のとき、アカデミーを卒業しました。

教師に

24歳のとき、未来派の集まりに行ったり、マリネッティやボッチョーニと知り合い、第1回未来派展に出品しました。

しかし、モランディは未来派は自分には合わないと感じました。

ボローニャの小学校デッサン教師になりました。

第一次世界大戦が勃発し、召集されましたが、すぐ病気になり入院し、除隊となりました。

ジョルジョ・モランディ《水浴》1915年

ジョルジョ・モランディ《花》1916年

デ・キリコ風の絵

ジョルジョ・モランディ《静物》1918年

28歳のとき、デ・キリコに影響を受け、形而上絵画を制作しました。

この頃、モランディについての評論新聞「イル・テンポ」に掲載されました。

ジョルジョ・モランディ《静物》1918年

29歳のとき、デ・キリコ、カッラと知り合い、雑誌「ラ・ロンダ」の知識人と交流を始めました。

ジョルジョ・モランディ《静物》1920年

32歳のとき、フィレンツェ春季展に出品し、紹介文でデ・キリコ絶賛しました。

36歳のとき、小学校の校長になりました。

若い芸術家たちの憧れの的

ジョルジョ・モランディ《静物》1929年

38歳のとき、ヴェネツィア・ビエンナーレに初出品しました。

40歳のとき、母校ボローニャ美術アカデミー版画科の教授になりました。

どうして油彩ではなく版画の教授になったのかというと、版画は技術だから教えられるけど、絵は芸術だから教えられないからだそう。

44歳のとき、ボローニャ大学の美術史の講義で、美術史家ロベルト・ロンギ「モランディは現代イタリア最大の画家である」と言ったことから、若い芸術家たちの憧れの的になりました。

49歳のとき、第3回ローマ・クワドリエンナーレ展にモランディの特別室が設置され、作品への評価が論争となりました。

名声を獲得

ジョルジョ・モランディ《静物》1948年

58歳のとき、ヴェネツィア・ビエンナーレ特別展「デ・キリコ、カッラ、モランディ展」が開催されました。

ジョルジョ・モランディ《静物》1948-1949年

以降、世界中に名声が広がり、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨークなど各地で個展を開きました。

66歳のとき、教授を辞め、ひたすらアトリエにこもり、絵を描きました。

67歳のとき、サンパウロ・ビエンナーレ絵画大賞を受賞し、さらに有名になりました。

73歳のとき、1年余りの闘病の後、末妹マリアに看取られて亡くなりました。

まとめ

モランディは、ありふれたモチーフを使いながら、瞑想的な静物画を描いた画家