こんにちは!
今回は、精神的に鬼病んで、常に死を意識していた割に、長寿な画家ムンクについてです!
どんな人生だったのか、早速見ていきましょう!
目次
エドヴァルド・ムンク(1863-1944年)
エドヴァルド・ムンク《自画像》1882年
エドヴァルド・ムンクは、ノルウェーの画家です。
背が高く、イケメンでした。
死がまとわりつく
エドヴァルド・ムンク《病める子》1885-1886年
「病と狂気と死がわたしの揺りかごの上を漂い、生涯にわたってわたしにつきまとう黒い天使となった」とのムンクの言葉通り、終始死がつきまとう人生でした。
5歳のとき、33歳という若さで母親が結核で亡くなります。
13歳の冬、ムンクは高熱にうなされ、血を吐き、結核だと思いこみ、死を意識します。
なんとか持ち直したものの、母のように慕っていた姉ソフィーエが結核で亡くなってしまいます。
自分の身代わりに姉が死んだのだと思い、「自分のせいだ…!」と強くショックを受けます。
これらの出来事によって、ムンクの聴覚は異常に敏感になり、後の人生、そして絵画作品に永遠に影響を与え続けました。
上の絵のモデルは姉です。横にいるのは叔母です。
相当トラウマだったようで、ムンクはこの絵を6点制作しています。
ムンクは5人兄弟でしたが、短命だったり、精神を病んだりと、揃いも揃って幸薄いのがツラい…。
ムンクは作品を制作する際に、最初のイメージにたどり着くために、線を削り取ったり、溶解剤でぼかしたりして、作品を何度も描き直しました。
その過程でキャンバスには、傷やヒビ、汚れななどがつき、それが絵にひとつの命を与えているかのように感じられたそう。
これをムンクは「へステキュール(荒療治)」と呼んでいました。
異常な父親
信仰深いムンクの父親は、妻を亡くしてから、狂信的なほどキリスト教の信仰にのめり込んでいきます。
子供を叱るときは、異常に厳しく、その異様な姿にも精神が削られていきます。
絵を描くことがセラピー
画家になることを反対していた父親を説得し、絵画学校へ通います。(よく許してもらえたな…)
20代では、フランスとノルウェーを行ったり来たりします。
ムンクにとって、湧き上がる得体の知れない恐怖や不安から、心を落ち着かせてくれるのが絵画でした。
かと言って、狂気の中で、勢いに任せて描いた画家、というわけではなく、そこは冷静に考えて作品を作っています。
自分の中の狂気がインスピレーションになっていて、それを利用しているんです。
だから巨匠なんです。
ムンク事件
ベルリン芸術家協会に紹介され、個展を開くも、大ブーイングを受け、1週間で閉鎖に。
心霊写真?
《思春期》1894-1895年
結核により15歳でこの世を去った姉ソフィーエがモデルだといわれています。
少女の不安や恐れが、黒い不気味な影として表現されています。
ムンクは当時流行りの心霊写真からインスピレーションを受けてこの形を思いついたそう。
生命のフリーズ
「生命のフリーズ」とは、主に1890年代に作成した、「愛」と「死」そして、愛と死がもたらす「不安」がテーマの一連の作品のことです。
ここではいくつかピックアップして紹介します。
エドヴァルド・ムンク《叫び》1893年
ムンクといえば…!という作品ですね。
この絵実は4枚あります。(リトグラフ除く)
なんと!上の絵のどこかに、
「この絵は、狂人にしか描けない」
っていう絵の雰囲気を盛り上げる最高の落書きがあります。
どこに書いてあるのかなど、この絵の解説についてはこちら!
エドヴァルド・ムンク《不安》1894年
エドヴァルド・ムンク《絶望》1894年
エドヴァルド・ムンク《生のダンス》1899-1900年
この絵のモデルは、左の白いドレスの女性が、今の恋人のトゥラ・ラーセン、
右の黒いドレスは、老いて捨てられたトゥラ・ラーセン、
中央の男性が、ムンク、
赤いドレスの女性が、昔の恋人ミリー・タウロウです。
メンヘラな恋人に殺されかける
ストーカーのような異常な恋人のトゥラから「私たち、いつ結婚するの?」と詰め寄られ、「そんな約束してないよ」と口論に。
揉み合いの末、トゥラが銃を発砲、ムンクは左手の中指の一部を失います…
その後、精神不安定な状態に陥り、アル中に。
病が創造の源だった
エドヴァルド・ムンク《太陽》1911-1916年
トゥラとのこともあり、ムンクの精神状態が限界に達し、神経症で8ヶ月間入院します。
退院後、精神的に落ち着いたムンクは、皮肉にも作風が変わり、今までのような絵を描くことができなくなります。
上の絵を見ても、その豹変ぶりがわかるかと思いますが、どんだけ病んでたのってくらい違います。
初めてこの絵を見たとき、「ムンクでもこんな明るい絵描くの????」ってびっくりしました。
目の血管が破裂
左目の視力が落ち、右目を頼りに絵を描いていましたが、1930年に、右目の血管が破裂し、どうにもならなくなります。
眼科からは「治療法はない」と言われ、絵は描けないので、文章を書くことに。
その後、視力は徐々に回復し、1933年には絵をまた描けるようになりました。
評価は上がるが…ナチスに怯える晩年
《自画像/時計とベッドの間》1940-1944年
ノルウェー政府から勲章を授与されたり、国立美術館が絵を買い上げたりと、評判は高まっていきます。
1940年、ムンク76歳のとき、ナチスがスウェーデンへ侵攻してきます。
作品の没収を恐れて、アトリエにこもります。
上の自画像は、ムンクの絶筆だといわれています。
そして80歳の誕生日を祝ってすぐ、亡くなりました。
まとめ
・ムンクは自分の精神状態と引き替えに、傑作を作り出した ・原動力は「死への恐怖」と「得体の知れない不安」