こんにちは!
今回は、ロダンについてです。
早速見ていきましょう!
目次
オーギュスト・ロダン(1840-1917年)
オーギュスト・ロダン《自画像》
オーギュスト・ロダンは、フランスの彫刻家です。
落ちこぼれ
パリで生まれました。
父親は、警視庁に事務員として勤めていました。
10歳のとき、初めて絵を描いたことで美術に興味を持ちました。
小学校でも中学校でも勉強はあまりできませんでした。
14歳になっても、算数はもちろん、読み書きも十分できませんでした。
才能開花
オーギュスト・ロダン《ソニアの森の小さな砂場》1871-1877年
14歳のとき、父親の反対を押し切り、装飾芸術学校(プチ・エコール)に入学しました。
学校前に友人の家で絵を習い、その後学校で8時から12時まで絵を描き、午後は図書館やルーヴル美術館に通いました。
独学で彫刻を習得
ある日、授業の教室を間違えて、塑像室に入ってしまったことがきっかけで粘土に興味を持ち、制作するようになりました。
19世紀の彫刻は、石を彫るのではなくて、粘土で原型をつくるのが主流でした。
17歳のとき、デッサンも学内で1等を取るまで上達しました。
進路相談した先生にも芸術的な才能があると言われたため(後年ロダンはこの人物に感謝の言葉を残しています)、エコール・デ・ボザールを受験しましたが、3年連続で不合格に…。
当時のエコール・デ・ボザールの試験の難易度は高くなかったため、3回連続で落ちたことは、ロダンにとって相当な屈辱でした。
とはいえ、ロダンの技術力が劣っていたというよりも、ロダンの作りたい作品とボザールの求める作品の方向性の違いで落ちていたようです。
建築装飾のアルバイトを転々とし、昼はバイト、夜は作品を制作しました。
姉の死と罪悪感
22歳のとき、ロダンを経済的に支えてくれていた姉が亡くなりました。
姉は、失恋で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていましたが、体調を崩し亡くなってしまいました。
その姉の恋人を紹介したのがロダンでした。
ロダンは激しい罪悪感に苦しみ、姉の後を追うように修道院に入り修道士見習いになりましたが、指導者に美術の道を続けるようにと諭され、修道会を離れました。
精神的な支え
オーギュスト・ロダン《ローズ・ブーレの肖像》1865年
24歳のとき、バイト先で知り合った20歳のお針子のローズ・ブーレと一緒に暮らし始め、子供も生まれました。
30歳のとき、普仏戦争が勃発し、従軍しましたが、近視のため除隊になりました。
31歳のとき、彫刻家カリエ・ベールズの下彫り職人として働きました。
人間を型取りしたんじゃないの?
オーギュスト・ロダン《青銅時代》1877-1916年
37歳のとき、等身大の男性像である上の作品をブリュッセルで発表した後、パリのサロンに出品しました。
その作品が今まで見たことがないくらいリアルだったため、その迫力にサロン審査員は「人間の体を型取りしたに違いない」と言い、作品を非難しました。
それに憤慨したロダンは、2年後に人間よりもかなり大きいサイズの彫刻を新たに作りました。
型を取ったわけではないとわかった審査員たちは、ロダンを称賛し、ロダンの知名度は一気に上がりました。
その後、この作品は国家買い上げとなりました。
いつまでも完成しない地獄の門
オーギュスト・ロダン《地獄の門》1880-90年頃/1917年(原型)、1926-1928年(鋳造)
40歳のとき、徐々にロダンの芸術が認められるようになり、国から装飾美術館の門扉を依頼されます。
ロダンは作品制作のために大きなアトリエを要求し、そこで制作しました。
休日になるとアトリエには、ロダンの制作姿を見ようと人々が殺到しました。
オーギュスト・ロダン《考える人》1880年(原型)、1901年(鋳造)
ロダンは、ダンテの「神曲」に登場する様々な人で門をいっぱいにしようと計画しました。
20年考えすぎて、結局門は完成せず、死後組み立て直されました…。
女性関係はだらしない
オーギュスト・ロダン《接吻》1882年
43歳のとき、友人の代理教師として、女性芸術サークルに教えに行きました。
そこで19歳の彫刻家カミーユ・クローデルに一目惚れし、以降モデルで愛人、弟子で芸術のパートナーとなり、一緒に暮らしました。
ロダンは、謙虚、内気、心配性な性格でしたが、女性関係にだけはだらしなく、制作のためなら何人女性がいようと関係ないという自分勝手さを発揮し、彼女たちを苦しめました。
有名になる
オーギュスト・ロダン《カレーの市民》1889年
44歳のとき、上の作品を制作し、48歳のときに完成させました。
オーギュスト・ロダン《バルザック像》1897年
51歳のとき、フランス文芸家協会から上の作品を依頼されましたが、完成までに7年かかったことや、その出来栄えに納得しなかった依頼主が受け取りを拒否しました。
オーギュスト・ロダン《歩く男》1877-1900年(原型)、1917年以前(鋳造)
上の作品は習作で、下の作品が完成作です。
完成作よりもこちらの方がロダンらしさが出ているとして評価されています。
オーギュスト・ロダン《洗礼者ヨハネ》1878、1880年
愛人カミーユとの別れ
オーギュスト・ロダン《パンセ》1895年頃
上の作品は、カミーユがモデルです。
彼女を閉じ込めるかのように、首から下が塊のままです。
58歳のとき、カミーユが去っていきました。
どうして彼女がロダンの元を去ったのかというと、カミーユがローズと自分どちらを選ぶのかロダンに迫り、彼がローズを選んだからでした。
この頃ローズは病に倒れ、そんな彼女をロダンは放っておけなかったのかもしれません。
ショックを受けたカミーユは、以降、徐々に精神のバランスを崩し、ついには南仏の精神病院に入院し、亡くなるまでの30年間、病院から出ることはありませんでした。
晩年
60代のとき、レジオン・ドヌール3等勲章を受章しました。
ロダン展がパリを皮切りに、世界主要都市を巡回しました。
各地の大学から名誉博士号を贈られ、世界的な名声を得ました。
68歳のとき、パリ市に《考える人》を寄贈しました。
70代のとき、ビロン館のアトリエをロダン美術館として残す計画を立て、国家に働きかけました。
全作品の寄贈を受け、ロダン美術館が開設されました。
77歳のとき、死期の迫ったローズと遂に結婚し、翌月ローズが亡くなりました。
その9ヶ月後、ロダンも亡くなりました。
ロダンの末期の言葉は「パリに残した、若い方の妻に逢いたい」でした。
まとめ
・ロダンは、これまでにないくらいリアルな像をつくった彫刻家