こんにちは!
今回は、ポロックについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ジャクソン・ポロック(1912-1956年)
《自画像》1930-1933年
ジャクソン・ポロックは、アメリカの画家です。
10代でアル中
アメリカのワイオミング州コーディで生まれました。
小さい頃はインディアンの遺跡で遊んでいました。
父親が農業経営に失敗し、各地を転々としました。
16歳のとき、ロサンゼルスに移住しました。
幼い頃から精神的に不安定で、この頃既にアルコール依存症でした。
壁画の制作方法に刺激を受ける
《白い馬のいる風景》1934-1938年頃
18歳のとき、兄の勧めでニューヨークの美術学校に入学しましたが、デッサンは苦手でした。
友人と大陸横断旅行に出かけ、メキシコの画家シケイロスの壁画に圧倒されました。
24歳のとき、メキシコ壁画運動が盛んで、死刑ロスがニューヨークで開いた「実験工房」に兄と参加しました。
そこで、エナメル塗料や工業用塗料をスプレーガンで吹き付けたり、塗料をまき散らしたり、垂らしたりする大画面ならではの制作方法に刺激を受けます。
23歳から30歳の間、WPA(公共事業促進局)のFPA(連邦美術計画)の仕事をしました。
これはなにかというと、この頃のアメリカは大恐慌だったため、芸術家救済措置として、国が壁画や公共の仕事を芸術家に与え救済していました。
スケッチ療法
アルコール依存による神経症が悪化し、26歳のとき、ニューヨークの病院に入院することに…。
退院後も精神分析を受け続けました。
《鳥》1938-1941年
27歳のとき、ヘンダーソン医師による、心に思い浮かぶものを描くというスケッチ療法によって、意識化への興味が開きました。
第二次世界大戦が勃発しました。
妻との出会い
《誕生》1941年
30歳のとき、25歳のときに知り合った画家で批評家のグレアムが企画した展覧会に出品しました。
展覧会の準備中に、同じく出品予定の4歳年上の画家リー・クラズナーと出会いました。
グッゲンハイムと知り合う
《秘密の守護者たち》1943年
31歳のとき、FAPの仕事も終わり、非具象絵画美術館(後のグッゲンハイム美術館)の保管係をしていました。
《壁画》1943年
そこでオーナーの姪ペギー・グッゲンハイムと出会い、契約することになり、個展や壁画制作の依頼を受けました。
この頃から線描が多くなりました。
結婚
33歳のとき、リー・クラズナーと結婚し、ニューヨーク郊外の農園に移りました。
2人は家を修理し、畑を作り、静かな暮らしを始めました。
34歳のとき、納屋をアトリエにしました。
広い床に紙を置き、家を修理した際に使ったペンキや塗料を、昔シケイロスの「実験工房」で見たように塗料を垂らして描く「アクション・ペインティング」が誕生しました。
作品の抽象化、均質化が進み、タイトルに番号を使うようになりました。
アクション・ペインティング
《黒、白、黄、赤の上の線》1948年
36歳のとき、ベティ・バースンズ画廊で「アクション・ペインティング」の作品を初公開しました。
「何だこれは…!」と話題にはなりますが、絵の具をぶちまけただけだろと評価はされませんでした。
それに対してポロックは、「ドリッピング(垂らし)」「ポーリング(流し)」「スパター(散らし)」というテクニックを用いて、「絵の具の動きを完全にコントロールしている!」と主張しました。
一躍有名になるとともに行き詰まる
37歳のとき、「ライフ」誌にポロックの特集記事が載り、一躍人気作家になります。
《秋のリズム:ナンバー30》1950年
38歳のとき、約2か月間、ドキュメンタリー撮影を行いました。
これまで2年間アルコールを断って制作に励んでいたポロックでしたが、カメラの前での制作に相当ストレスがかかっていたのか、撮影終了日に飲酒して制御不能に陥り、暴れました。
酔っ払ったポロックはテーブルをひっくり返し、カメラマンに何度も「俺はペテン師じゃない」と詰め寄ったとか…。
この日を境にして、ポロックの酒量は増え、制作に行き詰ります。
セシル・ビートン 「ヴォーグ」1951年
39歳のとき、「ヴォーグ」誌で、自分の作品を背景に立つモデルの写真を見て、「自分の描いているものは絵なのか壁紙なのか…」とひどく落ち込みます。
《ナンバー14》1951年
新作が批評家に大不評だったり、マスコミとの論争(ポロックの絵は無秩序だ!…などなど)に嫌気がさしてきました。
43歳のとき、アルコール依存症が悪化しました。
事故死
44歳のとき、愛人でモデルのルースとその友人を乗せ、飲酒運転で暴走し、事故で即死します。
愛人のルースだけが助かっています。
妻のリーは自殺だと思い、ヒステリックな笑いが止まらなくなったとか…。
まとめ
・ポロックは、抽象主義の画家で、「アクション・ペインティング」の生みの親