こんにちは!
今回は、ゴッホの死についてです。
早速見ていきましょう!
ゴッホの死
フィンセント・ファン・ゴッホ《荒れ模様の空の麦畑》1890年
悩みと不安が最高潮に達した
ゴッホ37歳のとき、パリにいた弟テオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、妻ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていました。
またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、ゴッホ宛に悩みを吐露した長い手紙を書きました。
画家を目指し始めたばかりのゴッホは、今は自分の絵が売れなくても、いつかテオからの資金援助分かそれ以上稼いで返せるようになると、度々手紙に書いていました。
しかし、次第に、テオからもらった以上に何かを返す事なんてできないかもしれないと思い始め、でもどうすることも出来ず、自分にできることはそれでもただひたすら絵を描くことだと思っていました。
そんなときに、テオからの悩みの手紙をもらい、追い詰められたのかもしれません。
7月6日、ゴッホはパリを訪れ、テオに会いに行きました。
ゴッホの元に、オーリエや、ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずでしたが、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰ってしまいました。
ロートレックと仲が良かったと聞くと意外な交友関係に驚くかもしれませんが、ゴッホの絵をけなした人間を、ロートレックが殴りかかったなんていうエピソードも残っています。
アルル行きを勧めたのもロートレックでした。
テオの仕事の悩み以前に、子供ヴィレムが生まれ、自分たちの生活を守ろうとするヨーと、テオに金銭的に依存しているゴッホとの間で、対立関係が生じていたと考えられています。
ヨーとゴッホが絵をかける場所について口論になったことでそれが顕在化し、ゴッホが疎外感から自殺する原因になったともいわれています。
《ドービニーの庭》1890年
一方、テオが夏の休暇中にオランダの母のもとに息子を連れて一家で帰省する予定だったのに対し、ゴッホはそれによって自分が見捨てられるのではないかと感じ、テオ一家にオーヴェルに来てほしいと繰り返し希望していました。
7月6日にもそのことで兄弟の間で激しい議論があったであろうともいわれています。
そして、テオが7月14日付けの手紙で「明朝ライデンに発つ」と知らせてきたことでゴッホは自分の全存在をかけるほどの問題に敗れたためとも考えられています。
ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っています。
また、ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようですが、手紙は残っていいません。
7月22日、テオは兄に、自分とドリースが共同で画商を自営する計画については、ドリースが身を引いてしまい、7月21日、テオは経営者ブッソに商会に残ることを伝えたため、ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送りました。
これに対しゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」と書いています。
毎日のようにテオ宛に手紙を書いていたゴッホですが、遺書などは残っていません。
ゴッホの絶筆
《カラスのいる麦畑》1890年
「僕はあれ以来3点の大作を描いた。それらは荒れ模様の空の下に広大な麦畑の広がっているもので、僕は思いきって悲しみや極度の孤独を表現してみようとしてみた」
死の2週間ほど前に、ゴッホはテオへの手紙の中で、この作品について触れています。
青くほの暗い空と、黄とオレンジの麦畑の対照、奇妙なまでの画面の明るさ、誰にも真似できない色彩、うねる曲線、カラスの群れ、曲がりくねる道の先は見えず、見るものを不安にさせる不穏さから、「ゴッホの絶筆」としてよく紹介されますが、実際には違います。
ゴッホは、「これらの絵は、僕が言葉では語れないもの、僕の目に映った、田舎の健康で人を力づけるものを君たちに語ってくれると思うからだ」と語っていたことからも、暗い気持ちではなく、前向きな意味合いで描いた絵でした。
本作は7月初旬には完成しており、残りの数週間、ゴッホはほぼ1日1枚の絵を描いていました。
なぜこの作品が絶筆ではないのに「絶筆」として有名になってしまったのかというと、ゴッホの死の18年後に開催された展覧会カタログでこの作品を「絶筆」と紹介したのが事の始まりでした。
実際には下の作品が「絶筆」の可能性が1番高いのですが、本作の方が、ドラマチックな雰囲気があるので、「好まれた」のでしょう。
《木の根》1890年
ゴッホ美術館は、この絵が「おそらくゴッホ最後の絵」だとしています。
未完成の作品です。
植物の根と草と枝が描かれていますが、あまりにもクローズアップしすぎていて、全体が何であるかわからなくなっています。
ゴッホが自殺したときにアトリエのイーゼルに掛かっていたのがこの作品でした。
《オーヴェルの農場》1890年
この絵も未完で、最後から2番目の絵で、ゴッホが死の前日に描いたものだといわれています。
ピストル自殺
7月27日の日曜日、毎日遅れることなく夕食の時間までにはラヴー旅館に戻ってきていたゴッホが、この日は帰ってこず、ラヴー夫妻とその娘が心配していました。
夜、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったゴッホが帰り着きました。
旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェ医師は、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討しました。
傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったといわれています。
両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることにしました。
ポール・ヴァン・リッセル(ガシェ医師の仮名)《フィンセント・ファン・ゴッホ、彼の死の床》1890年
ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書きました。
翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行しました。
彼が着いた時点ではゴッホまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡しました。37歳でした。
たくさんの黄色い花でおくる
エミール・ベルナール《フィンセント・ファン・ゴッホの葬式》1893年
7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、タンギー爺さん、ピサロの息子など、12名ほどが参列しました。
棺桶のある部屋を、ゴッホの絵で飾り、棺の近くにゴッホのイーゼルと折りたたみスツールと絵筆を置きました。
棺はシンプルな白い布で覆われ、黄色い花の花束や花輪でいっぱいでした。
ガシェ医師は、ゴッホが愛していたヒマワリの大きな花束を添えました。
《ピエタ(ドラクロワの模写)》1889年
上の絵は、この部屋を飾った絵の中の1枚です。
テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いています。