アル中の治療で絵を描いた画家ユトリロを超解説!母親が友人と結婚?

こんにちは!

今回は、ユトリロについてです。

早速見ていきましょう!

モーリス・ユトリロ(1883-1955年)

ファイル:Maurice Utrillo, par Suzanne Valadon.jpg

シュザンヌ・ヴァラドン《モーリス・ユトリロの肖像画》1921年

モーリス・ユトリロは、フランスの画家です。

恋多き母親

シュザンヌ・ヴァラドン《子供のユトリロ》1886年

パリで、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれました。

母親はこの時16歳で、シャヴァンヌのモデルをしていたときにユトリロを産みましたが、すでに画家だった彼女は、絵を描くため、息子を祖母に預けていました。

母ヴァラドンは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合っていました。

ユトリロは、生まれつき体が弱いだけでなく、そんな家庭環境から情緒も不安定でした。

父親が誰かわからない

8歳のとき、スペインの画家で批評家のミゲル・ユトリロに認知され、ユトリロ姓になりましたが、ユトリロは生涯彼に会うことはありませんでした。

書類上は彼がユトリロの父親ですが、アル中のボァッシイだとも、ヴァラドンがモデルを務めていた画家のルノワールだとも言われており、諸説あり、結局のところわかっていません。

この頃、母親に連れられて初めて小児科医に精神薄弱と診断されました。

専門病院に入ることを勧められましたが、プライドの高い母親はそうせず、彼は祖母の元に戻ることになりました。

10代でアル中

10歳くらいから、孤独を紛らわすためにこっそりお酒を飲むようになります。

そもそもお酒が大好きだった祖母が、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていました。

母親の再婚

13歳のとき、母親が資産家のポール・ムージス結婚し、安定した生活を送れるようになりました。

彼の財力によってユトリロは私立小学校の寄宿舎に預けられることになり、毎週日曜日に2人が会いに来ました。

その後中学校に入学し、祖母の家から通いました。

ユトリロは優秀な成績を収めていましたが、最高学年に進んだ際に問題を多々起こし、退学することに…。

17歳のとき、ムージスのおかげで臨時雇いの外交員の職を得ましたが、4か月しか持ちませんでした。

ユトリロの気難しさと激情アルコール依存症の悪影響が仕事にまで及び、他にも銀行や商社に勤めては、すぐに辞めさせられるということを繰り返していました。

治療で絵を描き始める

モーリス・ユトリロ《パリのサン・ミシェル橋》1904年

18歳のとき、アルコール依存症治療のため、医師に勧められてを描き始めました。

しかし、アルコール依存症は酷いままで、ユトリロの精神は蝕まれていきます…。

そこで、20歳のとき、ムージスに連れられて精神病院に入院しましたが、母親はユトリロを精神病院に入院させることに大反対だったため、ムージスとの間に溝が生まれ、数年後に離婚しています。

ユトリロはというと、数ヶ月後には症状が改善され退院し、周囲を驚かせるほど穏やかだったそう。

モンマルトルで絵を描き始め、本格的に画家を目指すようになりました。

母親もユトリロの絵に助言しましたが、基本的には独学で絵を描きました。

地獄の3人組

シュザンヌ・ヴァラドン《家族の肖像》1912年

この頃、2歳年下の画家アンドレ・ユッテルと出会い意気投合します。

2人は一緒にモンマルトルの丘の絵を描きに行ったり、飲みに行ったりしていました。

そして、母ヴァラドンは、ユトリロからユッテルを紹介されます。

これが後に地獄のような関係を生むことに…。

彼らは後に「地獄の3人組」「呪われた3人組」と呼ばれるように…。

上の絵は、左からユッテル、ヴァラドン、ユトリロ、祖母です。

絵は売れるけど奇行が目立つように…

モーリス・ユトリロ《ノートルダム大聖堂》1909年

25歳のとき、画商ルイ・リボートがユトリロの才能を評価し、絵を購入するようになりました。

27歳のとき、酔っ払ったユトリロは、「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され泥酔と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けました。

絵はがきを見て描く

モーリス・ユトリロ《テルトル広場》1910年頃

元警察官のセザール・ゲイと知り合います。

彼は、「カス=クルート」という酒場を開くと同時に、「ベル・ガブリエル」という店を所有していました。

ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく、店の奥で絵を描くことを許可しました。

ユトリロは外で絵を描くより、酒場の奥で絵はがきを見て描くようになりました。

完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになりました。

人気画家になるも…

28歳のとき、ユトリロの絵画の価値が急上昇したため、画商リボートは専属契約を交わしました。

このことによって一家は経済的に安定し、ユッテルが絵を描かなくなり、ヴァラドンと共に、ユトリロの絵画で儲けようと考え始め、リボートと揉めました。

ユトリロの健康状態が悪化し、アルコール依存症治療のため、サノワ療養所に入り、すぐに回復しましたが、また入院します…。

29歳のとき、画商マルセイユと知り合いました。

彼はリボートよりも好条件な契約を提案したため、すぐに成立しました。

しかし得た収入で酒場を回ったため、健康状態が悪化し、また治療を受けることに…。

モーリス・ユトリロ《サン=セヴランの聖堂》1913年

30歳のとき、ブロ画廊で初めての個展を開きました。

カオス

モーリス・ユトリロ《コルシカ島、コルテ通り》1913年

母親と友人ユッテルの結婚に大きなショックを受け、再び酒場に浸るようになりました。

その後40歳までの間に10回入退院を繰り返しますが、酒を断つことはできず、入院中に絵はがきを見て制作することを覚えました。

暴行と器物損壊で逮捕され、警察に連行されました。

その後、精神病院で3週間拘束の後に、別の精神病院に移送されました。

モーリス・ユトリロ《シャルトル大聖堂》1912-1914年

31歳のとき、第一次世界大戦が勃発しました。

退院後、軍隊に志願しましたが、「精神病」によって兵役を免除されました。

35歳のとき、病院を脱走し、モンパルナスの通りで同じくアル中のモディリアーニに出会い、意気投合し、酒場を一緒に回るようになります。

36歳のとき、モディリアーニが亡くなり、孤独を深めます。

アル中が改善するとともに創作意力も薄れる

モーリス・ユトリロ《サクレ・クール寺院のカトリックサークル》1922年

ルプート画廊で個展を開くと、好評で、絵が売れ始めます。

周囲にも認められるようになり、酒量も減り、母親とユッテルの保護下で絵を描きました。

しかし、お酒の量が減ったことに連動して、作品への情熱も無くなっていきます…。

41歳のとき、禁治産者宣言を受けました。

モーリス・ユトリロ《パリの要塞》1925年

45歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を受章しました。

結婚

モーリス・ユトリロ《ダリア》1935年

52歳のとき、66歳の財産家の未亡人リュシー・ポーウェル結婚しました。

以降創造力の失われた制作を続けました。

母親の死で人が変わる

55歳のとき、母親が亡くなったという知らせを聞いて卒倒します。

葬式にも出席できず、その後は狂信的なカトリックとなりました。

72歳のとき、亡くなりました。

まとめ

ユトリロは、アル中の治療で描いた、白を基調とした風景画で評価を得た画家