こんにちは!
今回は、レジェについてです。
早速見ていきましょう!
フェルナン・レジェ(1881-1955年)
《メカニック》1918年
フェルナン・レジェは、フランスの画家です。
建築から絵へ
フランス北部ノルマンディー地方アルジャンタンの家畜商の家に生まれました。
父親は腕っぷの強い荒くれ者、母親はしっかり者でした。
父親は早くに亡くなりました。
19歳のとき、建築家を目指し、パリの建築事務所で設計者として働きました。
22歳のとき、パリ国立美術学校を受験し、不合格…。
装飾美術学校に入り、アカデミー・ジュリアンにも通いました。
《アジャクシオ要塞》1907年
当時のレジェは、印象派風の絵を描いていましたが、この画風に迷っていた頃の作品は、レジェが後年、処分してしまったため、ほとんど残っていません。
また、当時のエピソードもほとんど残っていません。
セザンヌの絵に感動
26歳のとき、サロン・ドートンヌで「セザンヌ回顧展」を見て、セザンヌの絵に感動し、セザンヌの研究をしました。
キュビスムに参加しました。
レジェは円筒形を好んだため、「キュビスム(立体主義)」をもじって「チュビスム(土管屋)」と呼ばれていました。
27歳のとき、モンパルナスの共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に移り住みました。
そこで、ドローネ、シャガール、スーチン、アルキベンコたちと交流します。
《縫い物をする女》1910年
29歳のとき、当時の有力な画商カーンワイラーに認められ、31歳のとき、カーンワイラー画廊で初の個展を開催し、32歳のとき、専属契約を結びました。
同じ頃、ヴィヨン、ピカビア、クプカ、ローランサンたちと「セクシオン・ドール」を結成しました。
《森のなかの裸体》1909-1911年
30歳のとき、アンデパンダン展に上の作品を出品しました。
親友ドローネと共にキュビストグループ「ピュトー」に入りました。
機械大好き
《バレエ・リュスを出る》1914年
レジェは、機械の高い造形性を人体に求め、機械のカッコよさを人間にも取り入れて描きました。
兵器かっこいい
33歳のとき、第一次世界大戦に従軍しました。
大戦中に見た大砲などの兵器の機能的美しさに心奪われたそう。
また、兵役期間の休暇中に見たチャップリンの映画が、その後の作風に影響を与えました。
《トランプ遊び》1917年
36歳のとき、ガス中毒で入院のため除隊になります。
38歳のとき、ジャンヌ・ローイと結婚しました。
《メカニカル・エレメンツ》1920年
機械が大好きで機械の絵をたくさん描きました。
39歳のとき、建築家のル・コルビュジエと知り合い、以降彼の設計した建築の壁画を担当することが多くなりました。
この頃から、壁画、舞台美術などにも活動の場を広げていきました。
古典絵画への興味
《室内の女たち》1922年
古典絵画をモチーフに描くようになりました。
上の絵は、アンドレア・デル・サルトの《マリアの誕生》を元に制作したと考えられています。
アンドレア・デル・サルト《マリアの誕生》
《3人の女》1921-1922年
43歳のとき、前衛映画「バレエ・メカニック」を制作しました。
シュルレアリスム
《鍵とモナ・リザ》1930年
シュルレアリスムに影響を受けて、上の作品を制作しました。
ルネサンス美術が嫌いだったレジェは、青ざめたモナリザを描きました。
54歳のとき、ニューヨーク、シカゴで個展を開きました。
晩年
《閑暇(ダヴィッドへの賛美)》1948-1949年
晩年のレジェは、労働の場と休暇を描いた作品が多くなります。
69歳のとき、妻ジャンヌが亡くなりました。
71歳のとき、弟子のナディアと結婚しました。
74歳のとき、パリ郊外の自宅で亡くなりました。
5年後の1960年、フェルナン・レジェ美術館が建てられ、開館式には、画家仲間のピカソ、ブラック、シャガール、そして当時のフランス文化相アンドレ・マルローも列席しました。
まとめ
・レジェは、円筒形のキュビスムの画家