こんにちは!
今回は、ドガが描いた《マネとマネ夫人》にまつわる、衝撃のエピソードを紹介します。
早速見ていきましょう!
マネとマネ夫人
エドガー・ドガ《マネとマネ夫人》1868-1869年
マネとドガ
1862年頃、ルーヴル美術館のベラスケスの《王女マルガリータ》(1654) の前で、マネとドガは出会いました。
ドガはマネの2歳下で、2人は共に生粋のパリジャンで同じような階級出身だったこともあり、友情はマネが世を去るまで続きました。
2人は、お互いに尊敬しつつも、遠慮なく言い合う関係でした。
そしてドガは、終生マネ家の人々とも深くかかわるようになっていきました。
歴史画家を目指していたドガに対し、自分と同じように現代生活を描くように助言したのもマネでした。
絵の交換
ある時、ドガがマネとピアノを弾くシュザンヌ夫人を描いた絵を贈ります。
しかしマネは、妻の絵が気に入らず、切断してしまいます。
ドガはその絵をマネの家で目にして激怒し、絵を家に持って帰り、マネからもらった静物画《プラム》(現在行方不明)を送り返します。
その後ドガが描き直すために、キャンバスを継ぎ足したと考えられていましたが、どうもドガではなくて画商など他の人物が継ぎ足したようです。
というのも、「切断事件」など強いエピソードであればあるほど、絵の価値が上がる傾向にあるため、「この絵は破損していますよ」とわかりやすくしたのでしょう。
こんなことがあって、ドガとマネは絶交したのかと思いきや、仲直りしています。謎。
ドガは気難し屋なので本当に謎。
マネのこと本当に好きだったんだな…って思わせてくれるエピソードです。
何でそんなに怒ったのか
マネ夫人の顔が気に入らなかったから切断したのだと考えられています。
そもそもドガは、女性への関心があまりなく、美化して描こうなんて全然思っていないし、むしろ写真でいうところの「写りの悪い」瞬間だけ切り取ったような絵を描く傾向にありました。
まあ、「写りの悪い」瞬間こそ、普段の顔なのかもしれませんが…描かれた本人は嫌ですよね。
もらった絵が気に入らないからってさすがに切り取ろうとは思わないので、何がそんなに許せなかったのかな〜って考えて、マネより、マネ夫人が嫌がったんじゃないかなぁって思いました。
もしくは、マネって女好きで、奥さん一筋!ってワケではなかったので、マネ夫人を描いたといいつつ、浮気相手の顔に近かったりしたのかな…とかいろいろ考えてしまいます。
マネが描いた妻シュザンヌ
マネも妻シュザンヌを複数枚描いています。
シュザンヌは、オランダのオルガン教師の娘でした。
20歳のとき、ピアノの勉強のためパリへ。
ブルジョワなマネ家に雇われ、マネの弟たちにピアノを教えることになりました。
そのとき、18歳のマネと出会い、2人は恋仲に。
誰の子かわからない子供が生まれ(本人たちはわかっていたかもしれません)、身分の違いもあり、正式な結婚はなかなか認められず、マネの父親の死後、結婚します。
《驚くニンフ》1861年
《読書》1848-1883年
エドゥアール・マネ《ピアノを弾くマネ夫人》1868年
《マネ夫人》1873年
《青いソファーのマネ夫人》1874年
《マネ夫人》1874-1876年
《温室のマネ夫人》1879年
《ベルヴューの庭のマネ夫人》1880年