こんにちは!
今回は、モネの人生が好転し始めます。
早速見ていきましょう!
10年ぶりのサロン&印象派グループの終焉
前回のおさらい
貧乏なのに大家族、食糧も暖房も無しのどん底生活の末、病気の妻カミーユが32歳でこの世を去りました。
ルノワールの大成功を見て…
クロード・モネ《ヴェトゥイユの春》1880年
モネ40歳のとき、サロンへの復帰を決意し、第5回印象派展には参加しませんでした。
長年サロン審査に反抗していたモネがサロンへの出品を決意した背景には、前年のサロンでの親友ルノワールの大成功がありました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年
ルノワールの《シャルパンティエ夫人と子供たち》がサロンで大評判となり、ルノワールは一気に上流階級の人気肖像画家としての地位を確立し、やっと貧しい生活から抜け出すことができました。
さらに、経済的に困っていたモネは、入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待もありました。
低下してきたとはいえ依然としてサロンの権威は、世間にとっては絶対的なものでした。
10年ぶりのサロン
クロード・モネ《ラヴァクール》1880年
10年ぶりにサロンに2点提出し、比較的伝統的なスタイルで描いた上の絵だけ入選しました。
しかし作品は、壁の上の方の不利な場所に展示されました。
ゾラは「10年もたたないうちに、彼は認められ、報いられるだろう」とモネを評価しましたが、作品が手早く描かれすぎているとの批判も加えました。
印象派グループの終焉
クロード・モネ《ラ・ロシュ=ギュイヨンの道》1880年
モネがサロンに出品したことで、印象派グループの解体は決定的になりました。
ドガは、モネを裏切り者として非難しました。
このころルノワールは、ほわほわっとした印象主義的作品から、明確な輪郭線と形態を持つ作品をつくるようになっていました。
シスレー、セザンヌとともにサロンに応募していました。
印象派展に残ったピサロはスーラの新印象主義的な絵を描くようになっており、印象派のスタイル自体が変わりつつありました。
モネは、印象派展に加わったラファエリや、ゴーギャンの作品を良く思っておらず、非常に低く評価していました。
第5回展は、もはや印象派展とはいいがたいものとなっていました。
人生初の個展
クロード・モネ《氷塊(解氷)》1880年
6月には「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌のギャラリーで初の個展を開催しました。
ヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示されました。
シニャックら新印象派の画家たちを惹きつけただけでなく、作品数点が売れ、上の絵は1500フランで売れました。
若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつありました。
個展は評判となり、新聞の評価も好意的、新しい顧客もつき始めたおかげで借金を無事に返すことができました。
やっと貧乏脱出か?!
フランスの景気が回復する中、画商デュラン=リュエルが経済的に立ち直り、翌年、モネとの間で定期的に大量の絵を購入する契約を結びました。
これにより、モネの経済的基盤は安定しました。
そのため第6回印象派展やサロンには出品する必要がもはやありませんでした。
次回は、ピンチに陥った恩人デュラン=リュエルをモネが助けます!
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