こんにちは!
今回は、ゴッホとジヌー夫人についてです。
早速見ていきましょう!
目次
ジヌー夫人
元・黄色い家の住人
フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年
「黄色い家」は、「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいましたが、その後空き家になっていた不動産でした。
そのためジヌー夫人が、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ゴッホを賃借人として紹介したようだと考えられています。
行きつけのカフェの経営者
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェ》1888年
ゴーギャンが来る前、ゴッホは、アルルの黄色い家の近くにあるマルティーヌ広場に面したところにある、カフェ・ドゥ・ラ・ガールに寝泊まりしており、そこを描いた上の作品を、3晩の徹夜で制作しました。
ゴーギャンがアルルに来て共同生活が始まってからは、2人はほとんど全ての食事をここでとりました。
ゴーギャンと一緒に描いた絵
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの女(ジヌー夫人)》1888年
ゴーギャンがアルルに来てから、2人は黄色い家の画室で40歳のジヌー夫人をモデルに絵を描きました。(ゴーギャンの説得のおかげ)
約1時間しか時間がなかったようですが、ゴッホは上の絵を描き上げました。
ポール・ゴーギャン《アルルの夜のカフェで》1888年
そのときに描いたスケッチを元にゴーギャンが描いたのが上の絵です。
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの女(ジヌー夫人)》1888-1889年
ゴッホの没後、1895年に画商ヴォラールの手に渡るまで、ジヌーは、ゴッホからプレゼントされた上の絵を手元に置いていました。
ゴーギャンのスケッチを元に制作
ポール・ゴーギャン《アルルの女(ジヌー夫人)》1888年
ゴーギャンがゴッホとの共同生活時代、先ほど登場した《アルルの夜のカフェ》を描く際に、準備のため、ジヌー夫人のスケッチを用意していました。
5枚あったはずの絵
《アルルの女(ジヌー夫人)》1890年2月 クレラー・ミュラー美術館
そのゴーギャンの素描をもとに、サン=レミで療養中のゴッホはジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けました。
ゴッホは療養院滞在中も、2度ほどアルルのジヌー夫人のもとを訪れ、手紙のやりとりもしていました。
ゴッホは妹ウィルへの手紙でこの絵について、「1世紀後の人たちの前に幻のように出現する肖像画を僕はどうしても描きたい。それを僕は写真のように現物に似せることで探求するのではなく、僕らの情熱的な表現によって探求したい。」と語っています。
ディケンズの『クリスマス・キャロル』と、ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』の本が一緒に描かれています。
《アルルの女(ジヌー夫人)》1890年 ローマ国立近代美術館
《アルルの女》は、ゴーギャン、弟テオ、自分用、ジヌー夫人、ゴッホの初期の支援者アルベール・オーリエが所有していたものと、全部で5枚ありましたが、ジヌー夫人が所有していた絵は見つかっていません。
ゴッホは、2月下旬に《アルルの女》をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になりました。(この絵が行方不明)
ゴーギャンに贈った絵
《アルルの女(ジヌー夫人)》1890年 サンパウロ美術館
ゴーギャンが所有していたのは上の絵です。
ゴーギャンはゴッホへの手紙で自分が書いたスケッチより、ゴッホが描いた肖像画の方が好きだと伝えています。
というように、「耳切り事件」後、2人は絶交したわけではなく、交流がありました。
テオの家に飾られていた絵
《アルルの女(ジヌー夫人)》1890年 個人蔵
上の作品は、テオが所有し家に飾っていたもので、《アルルの女》のなかで最も傑作とされています。
2006年5月にニューヨークのクリスティーズでの競売で、4033万6000ドルの高額で落札されました。
耳切り事件のきっかけになった絵
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの競技場の観衆》1888年
上の絵は、耳切り事件のきっかけのひとつではと推測されている「闘牛」を描いた作品です。
事件や絵の詳細はこちらで解説しています。↓
ジヌー夫人らしき人物が描かれています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ミシェル・ジヌーの肖像》1888年
ゴッホはジヌー夫人の夫、ミシェル・ジヌーの肖像画も描いています。