ボッチョーニを超解説!母の溺愛でワガママに育った?

こんにちは!

今回は、ボッチョーニについてです。

早速見ていきましょう!

ウンベルト・ボッチョーニ(1882-1916年)

ウンベルト・ボッチョーニ《自画像》1905年

ウンベルト・ボッチョーニは、イタリアの画家、彫刻家です。

「蘇生したナポレオン」と評されるほど傲慢な性格で、他人の成功をねたみ、自分が目立つことだけを考えていました。

各地を転々とする

イタリアのレッジォ・ディ・カラブリアで生まれました。

政府の役人だった父親と共に、イタリア各地を転々としました。

15歳のとき、シチリアのカターニア工芸学校を卒業しました。

画家を志す

その後、画家を目指してローマに出て、商業画家のもとで修行しました。

商業デザインや挿絵を描いて生活費を稼ぐ日々が続き、「芸術家になりたいのに…」と葛藤を抱えます。

19歳のとき、フランス印象派の影響を受けるイタリア分離派の画家ジャコモ・バッラと出会い、彼のアトリエに出入りするようになり、そこで前衛的な画家、文学者に接するジーノ・セヴェリーニと出会い、仲良くなります。

ウンベルト・ボッチョーニ《自画像》1905年

24歳のとき、セヴェリーニに勧められてパリへ旅行に出かけ、電車、地下鉄、街頭、カフェなど進んだ文明に驚き、刺激を受けます。

ロシアを経て帰国しました。

未来派宣言

ウンベルト・ボッチョーニ《ヴェネツィアの大運河》1907年

25歳のとき、ミラノに移り、郊外の工業地域ポルタ・ロマーナで母と妹とともに暮らし始めました。

27歳のとき、フランスの日刊紙「ル・フィガロ」の第一面に発表した、詩人マリネッティの「未来派宣言」に共鳴します。

ボッチョーニとカルロ・カッラは、マリネッティの家で、日夜議論をかわしました。

ウンベルト・ボッチョーニ《立ち上がる都市》1910年

28歳のとき、マリネッティの指導で、カッラらと「未来派画家宣言」を発表しました。

ウンベルト・ボッチョーニ《笑い》1911年

29歳のとき、ミラノで初の未来派展覧会を開催しました。

ただの真似じゃん?と言われる

ウンベルト・ボッチョーニ《家に入る通り》1912年

30歳のとき、パリで未来派展を開催し、盛況でした。

しかし、キュビスムの擁護者アポリネールは「センチメンタルで未熟なキュビストの模倣者だ」と言い、これに怒った未来派は、展覧会のカタログの序文に「キュビスムは偽装されたアカデミズムだ!」と記して反撃しました。

ウンベルト・ボッチョーニ《魂の状態、別れ》1911年

しかし実は、ボッチョーニたちはピカソやキュビスムの画家に会い、技術を吸収していました。

上の絵でも、画面中央の数字は、キュビスムの影響です。

この後、この展覧会は各地を巡回しました。

硬貨のデザインにもなっている彫刻作品

ウンベルト・ボッチョーニ《空間の中の連続した単一の形態》1913年

ボッチョーニは次なる探求を始め、「未来派彫刻技法宣言」を発表し、サロン・ドートンヌに彫刻作品を出品しました。

これにはアポリネールも「近代彫刻では、ボッチョーニのほかに残すべきものがない」と賞賛しました。

上の作品は、ボッチョーニの彫刻の代表作品ですが、イタリアの20セント・ユーロ硬貨のデザインにもなっています。

未来派の宣言は、展覧会を行うごとに、「未来派音楽宣言」「未来派文学技法宣言」…などなどと増えていきました。

精神状態の悪化

ウンベルト・ボッチョーニ《サイクリストのダイナミズム》1913年

31歳の頃から孤立するようになり、うつ病の発作に襲われるようになりました。

戦争に魅せられて…

ウンベルト・ボッチョーニ《槍手の突撃》1915年

32歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、イタリアの「中立」に反対し、逮捕されました。

33歳のとき、従軍を志願しました。

ボッチョーニだけでなく、未来派の芸術家はこぞって入隊しました。

というのも、都市や機械など圧倒的な力に魅せられていた彼らは、戦争にも魅了されていました。

ボッチョーニを溺愛していた母親は、彼が戦場に向かうときにも「未来派万歳、イタリア万歳、義勇軍万歳」と叫びながら隊列について来たといわれています…。

前線でボッチョーニの心は、戦争の美しさと恐怖を感じたり、戦争の忌まわしさと英雄主義に嫌気がさしたりと、揺れ動きました。

そんななか、軍での訓練中に落馬し、馬に踏みつけられ亡くなりました…。

まとめ

ボッチョーニは、近代都市の躍動感を表現した芸術家