こんにちは!
今回は、光と影の魔術師レンブラントについてです!
早速見ていきましょう!
目次
レンブラント・ファン・レイン(1606-1669年)
レンブラント・ファン・レイン《34歳の自画像》1640年
レンブラント・ファン・レインはオランダの画家です。
オランダの大都市レイデンの裕福な製粉業の家に、9人兄弟の8番目として生まれます。
レンブラント以外の兄弟は家業の製粉業に就き、彼だけが大学に進学します。
両親はレンブラントが法律家になることを期待していましたが、絵を描きたかったレンブラントは、両親を説得し、地元の歴史画家スヴァーネンブルフに弟子入りし、3年間学びます。
18歳のとき、当時オランダ最高の歴史画家だったラストマンに弟子入りします。
半年という短い期間でしたが、ここで、カラヴァッジョ派の明暗技法や、物語画など表現方法を学びます。
画家人生のスタート
レンブラント・ファン・レイン《聖ステバノの殉教》1625年
レイデンに戻り、19歳で画家として独立し、実家にアトリエを構えます。
その後、同じくラストマンに弟子入りしていた友人の画家ヤン・リーフェンスと共同でアトリエを持ち、競い合いました。
22歳のときには、弟子を指導していました。
この頃には、レンブラントの評判は高まりつつあり、チャールズ1世への献上品の中にレンブラントの絵も含まれていました。
アムステルダムへ
23歳のとき、父親が亡くなったことを機に、アムステルダムへ出ます。
知り合いの画商で画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフの工房で仕事をしました。
25歳のとき、裕福な商人ニコラス・ルツから初めて肖像画を注文されます
集団肖像画
レンブラント・ファン・レイン《ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義》1632年
26歳のとき、集団肖像画である上の絵が評判になり、一流画家へ仲間入りします。
制作が間に合わないほど肖像画の注文が殺到し、収入も増え、生活が安定します。
サスキアと結婚
レンブラント・ファン・レイン《フローラに扮したサスキア》1634年
28歳のとき、サスキア・ファン・アイレンブルフと結婚します。
結婚式では、レンブラント側の親族を誰1人呼ばなかったそう。
彼女はアイレンブルフのいとこで、父親は亡くなっていましたがレーワルデンの市長を務めたこともある人物で、一族は裕福でした。
サスキアは、多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしました。
悪い癖…
聖ルカ画家組合に親方として登録されます。
高級住宅街に家を買い、絵画や骨董収集にハマります。
工房に弟子を雇い、多数の注文を受け、儲かっていましたが、美術品収集にすべて使ってしまいます。
身内の不幸、不幸、不幸…
レンブラント・ファン・レイン《酒場のレンブラントとサスキア(放蕩息子)》1635年
29歳のとき、長男ロンベルトゥスが生まれますがすぐ亡くなってしまいます。
その後生まれた長女も次女も、幼くして亡くなっています。
母親、義妹も亡くなりました。
35歳のとき、4人目の子供ティトスが生まれ、この子だけが無事成長します。
ですが、悲しいことに翌年妻サスキアも亡くなってしまいます。
夜警
レンブラント・ファン・レイン《夜警》1642年
今では、レンブラントの絵の中で1番有名で1番人気の作品ですが、《夜警》というタイトルなのに夜の絵でなかったり、注文主から苦情が殺到した作品です。
詳細はこちら↓
そしてこの頃から、繁栄していた工房に少しずつ陰りが見え始めます。
愛人との泥沼関係
妻の死後雇った乳母ヘールトヘと愛人関係に。
彼女は非常に強欲で、レンブラントと揉めに揉めまくります。
後にレンブラントは不当解雇で訴えられ、5年間の生活費を払うことに…。
懲りない
レンブラント・ファン・レイン《ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴》1654年
43歳のとき、20歳年下の農民の娘ヘンドリッキェを家政婦として雇い、また愛人関係に。
彼女はヘールトへとは違って、レンブラントを献身的に支えていたそう。
上の絵は彼女がモデルでは?といわれています。
48歳のときには、娘コルネリアも生まれています。
でも再婚はしません。
なぜならサスキアの遺言で、再婚したらサスキアの遺産は自由に使えなかったからです。
お金は大事と…。
無一文
50歳のとき、収集癖と浪費癖から自己破産します。
秘蔵のコレクションは全て競売に出すことに。
サスキアと暮らした邸宅を売り、貧民街であるローゼンフラフトに引っ越します。
こんな状態のレンブラントを見かねた画家ギルドは、彼を画家として扱わないよう定めました。
そこで、53歳のとき、ヘンドリッキェと20歳になった息子ティトゥスが共同経営で画商を開業して、レンブラントを雇う形態を取り、絵の注文を受けられるようにしました。
画家としての評価は高かった
レンブラント・ファン・レイン《ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)》1665-1669年頃
画家としての評判も落ちたかと思いきや、依然高く、最盛期ほどではないにしても、絵の注文もありました。
最晩年は、上の絵のような宗教画を描くようになります。
死
レンブラント・ファン・レイン《ゼウクシスとしての自画像》1668年頃
57歳のとき、ヘンドリッキェが亡くなります。
62歳のとき、息子ティトスが27歳の若さで亡くなります。
そしてレンブラントも63歳で亡くなりました。
破産は偽装?
…と、晩年はなかなか悲惨な感じだったと考えられていましたが、どうも破産は偽装で、悠々自適な生活を送っていたようです。
一時より人気が落ちたとはいえ、画家としての評価は高く、弟子もいたので、それなりに稼げていたのでは?と考えられています。
まとめ
・レンブラントは、光と影の表現の仕方が神