こんにちは!
今回は、「画家の中の画家」と呼ばれる最強の画家、ベラスケスについてです!
早速見ていきましょう!
目次
ディエゴ・ベラスケス(1599-1660年)
ディエゴ・ベラスケス《自画像》1645年頃
ディエゴ・ベラスケスはバロック期のスペインの画家です。
スペインのセビリアで生まれ、7人兄弟の一番上でした。
貴族の家系だと考えられていましたが、近年の研究では、多分商人、それどころか社会的に差別を受けていたコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ人)説が有力です。
出木杉くん
ディエゴ・ベラスケス《フランシスコ・パチェーコ》1620年頃
出木杉くんみたいに、何でもできる超優等生でしたが、特に絵を描くことにハマります。
兄弟も多く、家計を助けるために、10歳で工房の徒弟に出されています。
しかし、わずか数ヶ月で辞めてしまいます。
12歳のとき、多くの知識人や聖職者と交流のある師匠パチェーコのところに6年契約で弟子入りし、絵の知識だけでなく、教養全般を身に付けました。
パチェーコは、画家としては凡庸でしたが学があり、絵画技法の本を書いて出版し、弟子の個性を潰さず尊重しました。
17歳で修行を終え、独立。
画家として最上ランクの宗教画の親方マイスターに認められました。
師匠の娘と結婚
ディエゴ・ベラスケス《無原罪の御宿り》1618-1619年
18歳のとき、15歳の師匠パチェーコの娘フアナと結婚しました。
この絵のモデルはフアナだと考えられています。
19歳のとき、子供が生まれました。
娘も母親と同じくらいで結婚したので、ベラスケスは33歳にしてもう娘婿を持つ身でした。
フェリペ4世
22歳のとき、フェリペ4世が即位します。
フェリペ4世は、政治面ではパッとしませんでしたが、芸術を愛し、保護したおかげで、今のプラド美術館があります。
そして、プラド美術館のコレクションのほとんどは、王に美術品収集を依頼されていたベラスケスが集めたものです。
これも本当にあるあるなのですが、芸術を愛する王は、政治に興味がない人が多いです。
王に気に入られる
ディエゴ・ベラスケス《黒衣のフェリペ4世、全身像》1623-1628年
24歳のとき、マドリードへ行き、フェリペ4世の肖像画の依頼が舞い込んできます。
王とは年齢が近く、6歳下でした。
フェリペ4世は完成した絵を見て、わざとらしい美化もしないのに、王の威厳があって、大変気に入ります。
以降、王付き画家として寵愛を受け、マドリッド市内の広い自邸の他に、王宮にもアトリエが用意されました。
28歳でベラスケスは宮廷画家になり、以降、亡くなるまでの約30年間、王室のために絵を描き続けました。
フェリペ4世は、その後、ベラスケス以外の宮廷画家に自分の肖像画を描かせませんでした。
フェリペ4世は、ベラスケスのアトリエにもよく遊びに行きました。
絵を描くこと以外にも、王室の仕事も任されるようになります。(もちろん高給でした)
その仕事ぶりから、王はベラスケスを要職に付けます。
こうなると、他の宮廷画家からは嫉妬の嵐、嵐、嵐…
ベラスケスはとても慎重に振る舞い、仕事はきっちりこなし、敵に足をすくわれるような言動は決してありませんでした。
ルーベンスと仲良くなる
29歳のとき、フランドルから外交官として訪れていた51歳のルーベンスと仲良くなります。
画家として大成功していたルーベンスは、ベラスケスと違い、誰か1人の王に縛られることなく、大勢の権力者をパトロンに持ち、自由にヨーロッパを巡り、大工房を経営して人気作品を量産していました。
2人は一緒にエル・エスコリアル宮に行き、絵画鑑賞をします。
念願のイタリア旅行
ディエゴ・ベラスケス《ウルカヌスの鍛冶場》1630年
30歳のとき、前から行きたかったイタリアへ旅行します。
これも、ルーベンスがフェリペ4世に、ベラスケスのイタリア遊学を提案してくれたからでした。
旅行といっても、王の代理として美術品を収集したり、絵画の修行のために行くので、仕事という扱いです。
ローマに約1年間滞在しました。
2度目のイタリア旅行
49歳のとき、再びイタリアへ行き、3年間滞在します。(仕事という名の旅行)
この頃にはイタリアでもベラスケスは有名に。
裸のヴィーナスの数奇な運命
ディエゴ・ベラスケス《鏡を見るヴィーナス》1647-1651年
カトリック色の強い当時のスペインでは、ヌードを描くことは禁止されていたため、裸婦を描くというのは珍しく、バレたら異端審問にかけられるなど、かなりリスキーなことでした。
ベラスケスがイタリアにいたからこそ描けた作品で、彼の唯一のヌード画でした。
モデルは現地の愛人だといわれています。
1914年、暴漢によって背中からお尻、7箇所をナイフによって傷つけられてしまいます。
修復しましたが、現在も微かにその跡が見えます。
教皇インノケンティウス10世
ディエゴ・ベラスケス《教皇インノケンティウス10世》1650年
教皇インノケンティウス10世の肖像画の依頼がきます。
聖職者っていうよりかは、悪人っぽい顔をしています。
私はこの絵を見ると、画家フランシス・ベーコンがパロディとして作成した、怖すぎる絵を思い出して震えます…
フランシス・ベーコン《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作》1953年
奴隷を自由の身に
ディエゴ・ベラスケス《フアン・デ・パレ》1650年
フアン・デ・パレは、ベラスケスが親方になってまもなく、親戚から譲り受けた黒人奴隷です。
仕事を手伝わせているうちに、彼の絵の才能に気付き、弟子として育て、この絵の4年後には、自由身分を与え、画家として働けるようにしてあげました。
というのも、当時は、奴隷は芸術活動をしてはいけないという決まりがあったからです。
まさかの不倫
出木杉くんのように、誠実な人柄だったベラスケスが、なんと!ここにきて!未亡人マルタと関係を持ってしまいます。
さらに、ベラスケスが帰国してから子供が生まれています。
ベラスケスはその子の顔を見ることはありませんでした。
王宮配室長になる
フェリペ4世が3度も帰国命令を出し、ようやくマドリッドに戻りました。
戻ってくるのが遅くなったベラスケスを怒るどころか、彼を王宮配室長に任命しました。
これは、宮廷官吏最高位の仕事です。
何の仕事かというと、「王宮の全ての鍵を預かる役」です。
これは、フェリペ4世が、大好きなベラスケスが他の宮廷に取られるのではと不安になったからともいわれています。
ラス・メニーナス
ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス(女官たち)》1656年
57歳のとき、ベラスケスの代表作《ラス・メニーナス》を描きます。
門外不出です!見たい人はプラド美術館まで行かないと見ることはできません。
この絵とっても面白い仕掛けがたくさんあります!
詳しい解説はこちら↓
ナイトの称号をゲット
60歳で、念願のサンディアゴ騎士団の称号を得ました。
これのなにがすごいのかというと、通常貴族しかもらえない称号でした。
絶筆
ディエゴ・ベラスケス《青いドレスのマルガリータ王女》1659年
ベラスケスの絶筆となったのが上の絵です。
《ラス・メニーナス》にも登場するマルガリータ王女8歳のときの肖像画です。
ベラスケスは、マルガリータ王女のお見合い相手に、彼女が美しく成長していることを伝えるため、都度絵を描いていました。詳細はこちら↓
過労死
フェリペ4世の娘マリア王女とフランスの太陽王ルイ14世が結婚することになりました。
国境の中州に式場が設けられ、装飾担当責任者として多忙を極めたベラスケスは、無事やりぬいた直後に過労で倒れました。
そして数日後、王宮内の居室で息を引き取りました。61歳でした。
王宮内で息を引き取れる幸運な画家はなかなかいません。
その8日後に妻フアナも亡くなりました。
ほとんどの作品が門外不出
ベラスケスは、寡作でした。
イタリアに旅行〜な時を除いて、ほとんどの時間を王宮内で過ごしたため、その作品のほとんどが門外不出とされてきました。
作品の大部分は、マドリードのプラド美術館が所蔵しています。
まとめ
・ベラスケスはバロックの天才画家 ・画家人生のほとんどを宮廷画家として王宮で過ごした