こんにちは!
今回は、バジールとモネの微笑ましい(?)エピソードを紹介します。
早速見ていきましょう!
バジールとモネ
友達のモネ
バジール22歳のとき、復活祭の期間に、モネと一緒にフォンテーヌブローの森近くのシャイイ=アン=ビエールに写生に行きました。
バジールは、親への手紙で、モネを「画家の卵の中で一番の友達」と呼び、「風景画がとてもうまい友達のモネと一緒でしたが、彼はとても有益な助言をいくつもしてくれました」と書いています。
モネと一緒にノルマンディーのルーアン、オンフルール、サン=タドレスに滞在し、制作しました。
オンフルールでは、モネの敬愛する先輩風景画家ブーダンとヨンキントに出会いました。
アトリエを使わせてあげる
年末、バジールは、フュルスタンベール通りに構えたアトリエにモネを誘い、一緒に制作するようになりました。
その冬、モネとバジールは、バジールの親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れました。
ここで、ファンタン=ラトゥール、ボードレール、ナダール、メートルたちと出会います。
ケガをしているモネを描く
バジール23歳の春、モネは再びシャイイに行き、大作《草上の昼食》の制作を始め、バジールに、モデルになってほしいと言って来るように誘いました。

《病床のモネ》1865年
その夏、バジールはようやくシャイイに着きましたが、着いてみると、モネは、事故でけがをし、宿のベッドから離れられない状態でした。
バジールは、医学の知識を生かし、重りや毛布を使ってモネの痛みが和らぐようにしてあげたそう。
そして、その様子を絵に描いています。(笑)

クロード・モネ《草上の昼食》1865‐1866年
のちにモネは、バジールを一番左にいる男性のモデルに使って《草上の昼食》を完成させました。

《シャイイの風景》1865年
一方、バジールが制作した《シャイイの風景》は、バルビゾン派に近い、静止した自然を描いています。
モネへの惜しみない支援

クロード・モネ《庭の中の女たち》1866年頃
バジール25歳のとき、1867年のサロンで落選した26歳のモネの《庭の中の女たち》を、2500フラン(毎月50フランの分割払い)で購入し、支援しました。
その後も、長男が生まれたモネは、バジールへの手紙で経済的苦境を繰り返し訴えています。がめつい。(笑)
バジールは、モネの長男ジャンの名付け親でもありました。
バジールはたびたび、モネやルノワールを経済的に助けていましたが、父親からは、出費を心配して倹約を促す手紙が届いていました。