こんにちは!
今回は、なぜかモネとパトロン一家が共同生活することになった話です。
早速見ていきましょう!
モネ一家とパトロン一家の共同生活
前回のおさらい
売れない貧乏画家モネ、駅でどうしても描きたい絵があったので、巨匠のフリをして絵を描く許可をゲットしました。
マネのお金で引っ越し
クロード・モネ《ヴェトゥイユの道》1879年
モネ38歳の秋、いつものごとくマネから引っ越し費用を借りて、モネ一家はアルジャントゥイユよりずっとセーヌ河口に位置する小さな村ヴェトゥイユに引っ越しました。
その引っ越し費用は(いつものごとく)マネにお願いしました。
マネは作品の代金という名目で1000フランを渡し、これによってモネはアルジャントゥイユでの急を要する借金を返済し、ヴェトゥイユの前家賃を支払うことができました。
しかしそれでも生活費や引越し代金が足りず、モネは医師ポール・ガシェ(ゴッホの医者として有名ですね)にもお金を貸してほしいとお願いしています。
ドロドロの昼ドラ…
1880年頃の写真 緑がモネ家、紫がオシュデ家
ちょうどこの頃、モネのパトロンだったエルネスト・オシュデは、事業にも印象派への投機にも失敗して破産し、住むところを失っていました。
そして何を思ったのか、よりによって金欠のモネを頼って?モネの家に来てしまいます。他に頼る人いなかったの…。
モネ一家は、オシュデ夫妻と6人の子ども(マルト、ブランシュ、シュザンヌ、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)と共同生活を送ることになりました。
クロード・モネ《ジャン=ピエールの肖像》1878年
ジャン=ピエールは、昔、モネが絵を描くためにオシュデの邸宅に滞在した1年後に生まれた子供のため、モネとアリスの子では?ともいわれています…。
そして、エルネスト・オシュデは家族を残してひとりベルギーに行ってしまいました。
病気のカミーユと、カミーユの子供の面倒を見たのは、アリスでした。
印象派の仲間とは疎遠に
クロード・モネ《ヴェトゥイユの教会》1878年
モネは以後、パリに住まいを構えることはなく、その結果、印象派の仲間たちとは物理的にも精神的にも距離が生まれ、疎遠になっていきました。
印象派のグループ内でも、印象派展の売れ行きが思わしくないため、サロンに応募するかしないかで意見が対立しました。
ドガが、サロンに応募する者はグループ展に参加させないことを強く主張していたのに対し、ルノワールはこの年のサロンに応募し、モネも、グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになりました。
次回は、カミーユとの永遠の別れ&第4回印象派展です!
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