ゲルハルト・リヒターを超解説!映画化された数奇な人生とは?

こんにちは!

今回は、リヒターについてです。

早速見ていきましょう!

ゲルハルト・リヒター(1932年〜)

出典:Gerhard Richter『Self-portrait』

ゲルハルト・リヒター《自画像》1996年

ゲルハルト・リヒターは、ドイツの画家です。

彼の少年時代はナチスが勢いに乗っていた時代でした。

そしてその暗い影はその後の作品にも人生にも影響を与えています。

ナチスの暗い影

出典:Gerhard Richter『Hitler』

ゲルハルト・リヒター《ヒトラー》1962年

東部ドイツ、ドレスデンで生まれました。

父親はドレスデンの中等学校で教師として働き、母親はピアノを弾くのが好きでした。

10歳のとき、リヒターはドイツ小国民団(10〜14歳の男子が強制加入させられたナチスの組織)に徴兵されました。

不幸中の幸いでしょうか、ヒトラーユーゲントの公式メンバーにならないといけない年齢の前に戦争が終わりました。

両親もナチスの支持者ではありませんでした。

戦争では、母の兄弟2人が兵士として駆り出されて亡くなり、総合失調症の叔母マリアンヌもナチスが精神障害者や身体障害者に対して行った強制的な安楽死(T4作戦)で亡くなりました。

絵の才能

出典:Gerhard Richter『Apple、9.1.87』

ゲルハルト・リヒター《リンゴ》1987年

15歳の頃、リヒターは定期的に絵を描き始めました。

描いていたものが、本に載っていた裸の人物だったため、彼の両親はなんともいえない微妙な反応をしたそう。

彼はまた、水彩画を使って風景や自画像を制作しました。

劇場画家として働いた後、19歳のとき、ドレスデンの美術大学に通い始め、24歳まで絵画を学びました。

ピカソやゴーギャンに憧れつつも時代がそれを許さず、社会主義リアリズム(社会主義思想を広めるためプロパガンダ)しか学べませんでした。

その後、自由度が高そうだと思った壁画を学びました。

妻エマと娘ベティ

出典:Gerhard Richter『Ema (Nude on a Staircase)』

ゲルハルト・リヒター《エマ(階段上のヌード)》1966年

25歳のとき、「エマ」という愛称で呼ばれていたマリアンヌと結婚し、後に娘が生まれています。

上の作品は「フォトペインティング」というシリーズの作品で、写真などを油彩で模写したもので、ぼやけているのが特徴です。

つまり、リヒターの作品で写真に見えるものは全て絵です。

上の《エマ》は、彼女がリヒターに妊娠を伝えた際に撮られた写真を元にして描いた作品です。

出典:Gerhard Richter『Betty』

ゲルハルト・リヒター《ベティ》1988年

そしてその子供というのが、ベティという愛称で呼ばれていたバベッテです。

映画化された嘘のような本当の話

出典:Gerhard Richter『Aunt Marianne』

ゲルハルト・リヒター《叔母マリアンヌ》1965年

リヒターの叔母も妻の名前もマリアンヌでしたが、実はこの2人、本人たちも知らなかった接点がありました。

上の作品はまだ14歳だった叔母と小さい時のリヒターが描かれています。


ある画家の数奇な運命(字幕版)

嘘のような本当の話のため、映画にもなっています。

出典:Gerhard Richter『Family at the Seaside』

ゲルハルト・リヒター《海辺の家族》1964年

閉鎖病棟に入れられた叔母は、裸にされて餓死寸前まで追い込まれ、最後は薬を与えられ、帰らぬ人となりました。

ナチスによって叔母は殺されたわけですが、その殺害の原因となった安楽死政策の責任者だった医師の男の娘が妻のマリアンヌでした。

結婚当初リヒターはこのことを知らず、後に知ることとなります…。

上の作品はそのことを知らなかったときに描いた義父の絵です。

ベルリンの壁、東から西へ

29歳のとき、東ドイツの共産主義体制に制約を感じ、ベルリンの壁がつくられる直前に西ドイツへ移住しました。

これは、ベルリンの壁によって東西ドイツの行き来が禁止される寸前でした。

その後デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学しました。

「資本主義リアリズム」と呼ばれる運動のなかで独自の表現を発表し、注目を集めるようになりました。

その後は、イメージの成立条件を問い直す多岐にわたる作品制作を通じて、ドイツ国内のみならず、世界で評価されるようになりました。

カタログ・レゾネ1はこの作品

出典:Gerhard Richter『Abstract Painting』

ゲルハルト・リヒター《机》1962年

30歳のとき、新聞の写真を用いたフォト・ペインティングの作品である上の絵を描き、それを作品番号1とし、以降通し番号が付けられています。

32歳のとき、アルフレート・シュメーラ・ギャラリーで初の個展が開催されました。

39歳のときからデュッセルドルフ芸術大学教授を15年以上にわたり務めました。

出典:Gerhard Richter『Abstract Painting』

ゲルハルト・リヒター《読む女》1994年

63歳のとき、画家のザビーネ・モーリッツと3度目の結婚をしました。

上の作品のモデルは彼女です。

超今風なケルン大聖堂のステンドグラス

出典:Gerhard Richter『Cologne Cathedral Window』

ケルン大聖堂の南翼廊のステンドグラス 2007年

2007年(75歳)にドイツのケルン大聖堂の破損していたステンドグラスの一部を、リヒターが手がけました(正確には前任者のデザインした窓が不出来だったので取り替えた)。

出典:Gerhard Richter『Cologne Cathedral Window』

上の画像を見ても分かるように、モザイク風の市松模様のデザインで、かなり現代風です。

正方形のガラス1万1,500枚を使用しています。

出典:Gerhard Richter『Cologne Cathedral Window』

ガラスの色を大聖堂に残る中世のガラスにも使われている72色に限ることで、新しい窓を教会の内装の配色に調和させようと考えました。

ケルン大聖堂のステンドグラス

他のステンドグラスは、聖書の場面を描いたよくある教会のステンドグラスなため、リヒターの作品はかなり浮いており、賛否両論ありますが、これをOKとしたケルン大聖堂の太っ腹さ、私は好きです。

当時最高額で落札

出典:Gerhard Richter『Abstract Painting』

ゲルハルト・リヒター《抽象絵画(809-4)》1994年

2012年(80歳)、競売大手サザビーズがロンドンで行った競売で、エリック・クラプトンが所有していた上の作品が約2132万ポンド(約26億9000万円)で落札されました。

生存する画家の作品としては当時史上最高額でした。

ポーラ美術館が30億で落札した絵

出典:Gerhard Richter『Abstract Painting』

ゲルハルト・リヒター《抽象絵画 (649-2)》1987年

2020年10月のサザビーズ香港のオークションで、ポーラ美術館が約30億円で落札したのが上の作品です。

 

2022年4月現在、ポーラ美術館で開催中の「モネからリヒターへ」展で初公開!

モネの《睡蓮の池》と並べての展示です。

モネからリヒターへポーラ美術館開館20周年展の感想と完全ガイド!

2022.04.17

まとめ

・リヒターは、今を生きるドイツ最高峰の画家