こんにちは!
今回は、ポップアートの旗手ウォーホルについてです。
早速見ていきましょう!
目次
アンディ・ウォーホル(1928-1987年)
アンディ・ウォーホル《自画像》1986年
アンディ・ウォーホルは、アメリカの画家、版画家、芸術家です。
本名は、アンドリュー・ウォーホラです。
小さい頃からスター好き
アンディ・ウォーホル《トリプル・エルビス》1963年
アメリカのピッツバーグで3人兄弟の末っ子として生まれ、両親はチェコ移民でした。
幼い頃から映画が好きで、スターのスクラップブックを作っていました。
大人になってからは、『ティファニーで朝食を』の著者カポーティの大ファンだったウォーホルは、毎日ファンレターを送り、嫌がられていました。(後に仲良くなる)
容姿へのコンプレックス
幼少期にかかった病気の後遺症で顔や体にはアザがあり、白すぎる肌にそのアザがよく目立ち、さらに白っぽい髪色ということもあって、小さい頃からいじめられ、容姿に強いコンプレックスを持っていました。
後に整形手術を受けています。
また、大人になってからは、人前に出る時は、銀髪のカツラをかぶっていました。
人気イラストレーターへ
アンディ・ウォーホル《Àlarecherchedushoes perdu》1955年
17歳のとき、カーネギー工科大学に入学し、絵画とデザインを学びました。
大学では、多くの友人に助けられたそう。
21歳のとき、ニューヨークに行き、イラストデザインを売り込み始めました。
この頃から「ウォーホル」と名乗り始めています。
ボロボロの服をあえて着て、「素朴なアーティスト」を演出しました。
売り込みは成功し、『VOGUE』など有名雑誌に載り、あっという間に売れっ子イラストレーターになりました。
22歳のとき、母親が突然、ニューヨークのウォーホルのところへ引っ越してきました。
以降母親が亡くなるまで20数年一緒に暮らしました。
リキテンシュタインそっくりと言われ…
32歳のとき、『バットマン』『スーパーマン』などコミックシリーズを制作しました。
しかし契約していた大画廊のオーナーのキャステリのギャラリーでリキテンスタインのコミックモチーフの作品を見て、この主題からは手を引きました。
33歳のとき、友人のデ・アントニオから「もっとありふれたものを描いたら?」と言われ、キャンベルの缶詰を描きました。
シルクスクリーン
アンディ・ウォーホル《キャンベルのスープ缶》1962年
34歳のとき、手描きをやめてシルクスクリーンで作品を量産し始めました。
アンディ・ウォーホル《マリリン・モンロー》1967年
ファクトリー
アンディ・ウォーホル《フラワーズ》1964年
35歳のとき、アトリエを「ファクトリー」と名付けました。
このアトリエで生まれるものは無個性な生産品だ、という意味でファクトリー(工場)と呼んでいました。
工場っぽくするため、壁は全面銀色でした。
日中はアシスタントや版画技術者と打ち合わせをし、夜はパーティをハシゴする日々。
夜遅くに家に帰ると、母親が料理を用意して待っていたそう。
テレビを見ながら友人に1日の出来事を電話で話していました。
しかも2台のテレビで同じ番組を見ながら…2倍楽しいんだとか…。
映画制作に力を入れ、多数制作しました。
「ファクトリー」に出入りしていた変わったアーティストたちを、16ミリカメラに収めていました。
キスシーンだけの映画「キス」、6時間眠っている男性を撮り続けた「スリープ」などなど…6年間で150本もの映画を制作しました。
作品が銃で撃たれる
アンディ・ウォーホル《狙撃されたマリリン》1964年
36歳のとき、ある事件が起こります。
ファクトリーに来たドロシー・ポドバーが「shot(撃ってもいい?)」と尋ねてきたので、絵を撮影したいのだと思いウォーホルは「いいよ」と返事をします。
すると彼女は小さなバッグから小さな拳銃を取り出し《マリリン》の額めがけて突如発砲しました。
5枚重ねて置いてあった絵のうち、4つは弾丸が通過し、それらを《狙撃されたマリリン》として作品にしてしまいました。
自分が撃たれる
40歳のとき、ファクトリーでヴァレリー・ソラナスに狙撃され、死にかけます。
ソラナスはファクトリーの常連で、ウォーホルの映画にも出演したことがありました。
3発中2発は外れ、3発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通しました。
なんとか一命はとりとめましたが、作品の制作からは遠ざかるようになりました。
雑誌をつくる
アンディ・ウォーホル『インタビュー』1996年4月
41歳のとき、雑誌『インタヴュー』を創刊します。
その名の通り、インタビューのみで構成された雑誌でした。
42歳のとき、大阪万博に出品しました。
有名人のポートレート作りまくる
アンディ・ウォーホル《マイケル・ジャクソン》1984年
44歳のとき、雑誌社運営のため、大量の肖像画のシルクスクリーンを受注生産しました。
基本的には1点2万5千ドル、6点セットで顧客たちは買っていったそう。
作品は売れに売れ、世界中に名前と作品のイメージが広まりました。
意外な一面
そんなウォーホルでしたが、意外にも毎週ミサに通っていました。
しかし帰りは、近くの蚤の市でたくさん買い物をし、サザビーズのオークションの常連でもありました。
オークションでは、自分の作品の値段を吊り上げるために、オークションに参加していました…。
かと思えば、ホームレスの救済ボランティアに参加したり…。
ピッツバーグで母親が亡くなりました。
意欲的に制作
アンディ・ウォーホル《$ (9)》1982年
53歳のとき、《ドル記号》シリーズを制作しました。
アンディ・ウォーホル《最後の晩餐》1986年
58歳のとき、《最後の晩餐》シリーズを制作しました。
その後、胆のう手術後、心臓発作で亡くなりました。
医療ミスともいわれています。
ウォーホルの死後、1万点の家具、宝石、食器、靴がオークションにかけられました。
まとめ
・ウォーホルは、ポップアートの王であり、ありふれたものをシルクスクリーンで複写し続けたアーティスト