こんにちは!
今回は、ワイエスについてです。
早速見ていきましょう!
目次
アンドリュー・ワイエス(1917-2009年)
アンドリュー・ワイエス《自画像》1945年
アンドリュー・ワイエスは、アメリカの画家です。
病弱で繊細
ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードの裕福な家庭に生まれました。
ワイエスは自宅と別荘があるメイン州クッシング以外にはほとんど旅行もせず、作品の多くは、その2つの場所の風景と、そこで暮らす人々をテーマに描きました。
ワイエスは末っ子で、3人の姉と1人の兄がおり、みんな幼い頃から絵を描いていました。
6歳のとき、病弱で神経も繊細だったため、2週間で退学し、家庭教師から読み書きを学びました。
画家の父親からの期待
9歳頃から、水彩画を描くようになりました。
当時、人気挿絵画家だった父親が、絵画技法の基礎を徹底的に教えました。
しかし、次第に、自分の跡を継いでほしいとという父親の期待から逃れるため、1人で近くの丘陵や農場を歩き回るようになりました。
少年時代には人種差別が激しく、黒人街には白人が誰も近づかないような時代背景が存在しました。
しかし、ワイエスは人種差別をせず、黒人少年とも遊び、その様子はフィルムにおさめられ、現在も確認することができます。
43年間描いたカーナー夫妻
アンドリュー・ワイエス《カーナー夫妻》1971年
15歳のとき、その後43年間、近所に住むカーナー夫妻の絵を描きました。
父ニューウェルのアトリエでも仕事を始めました。
20歳のとき、ニューヨークのマクベス・ギャラリーで水彩の風景画による初の個展を開き、出品作は1日で完売しました。
21歳のとき、義兄にテンペラ画を教えてもらいました。
22歳のとき、第二次大戦で入隊を志願しましたが、身体虚弱のために不許可となりました。
足の不自由なクリスティーナ
アンドリュー・ワイエス《クリスティーナの世界》1948年
妻に紹介され別荘近くに住んでいたオルソン家の姉弟、クリスティーナとアルヴァロを、彼らが亡くなる1969年まで約30年間にわたって描きました。
上の絵はクリスティーナがモデルです。
一見すると、女性が草原に座っているだけのように見えますが、身体に障害のあるクリスティーナが這って家に帰ろうとしている様子を描いた作品でした。
友人にも50年間モデルを頼んでいた
アンドリュー・ワイエス《ガニング・ロックス》1966年
同じ頃、フィンランド人とネイティヴ・アメリカンの混血だった友人のウォルター・アンダーソンをモデルに上のような作品を描きました。
彼も、その後50年あまりモデルを務めました。
しっかり者の妻
アンドリュー・ワイエス《マガの娘》1966年
父親の反対を押し切って4歳下のベッツィ・マール・ジェイムズと結婚しました。
彼女の父親が編集者で、前年ワイエス家を訪ねてきたときに彼女と知り合いました。
上の絵のモデルは、ベッツィです。
ベッツィは、ワイエスの父からの口出しと戦い、作品の批評家兼有能なマネージャーとして、生涯にわたって彼を支え続けました。
ワイエスは、最年少でアメリカ水彩画協会の会員となりました。
アンドリュー・ワイエス《冬の野原》1942年
26歳のとき、長男ニコラスが誕生しました。
突然の死
アンドリュー・ワイエス《1946年 冬》1946年
28歳のとき、父親が初孫の3歳の甥を乗せて車を運転中、踏切で列車と衝突し、2人とも亡くなりました。
ワイエスは多大な精神的ショックを受け、その虚脱感が後の作品に表れました。(皮肉にも芸術的には大成功でした)
父親の死から半年後に描かれた上の作品は、丘から少年が駆け下りてくる瞬間的な絵ですが、少年は凍りついたように静止し鑑賞者と視線が交わることはありません。
この作品は、父親が事故死した1ヶ月後に、事故現場近くで水彩画に取り組んでいたワイエスの前を、軍服にパイロット帽をかぶった少年が駆け下りてきたため制作した作品でした。
29歳のとき、次男ジェイムズが誕生し、後に画家になりました。(通称ジェイミー・ワイエス)
数多くの賞を受ける
アンドリュー・ワイエス《海からの風》1947年
30歳のとき、アメリカ美術文芸アカデミーとニューヨーク国立美術文芸協会より功労賞を受賞し、以降、数多くの賞を受けました。
33歳のとき、結核のため、片肺を摘出する手術を受けました。
37歳のとき、コルビー・カレッジから名誉博士号を授与しました。
42歳のとき、フィラデルフィア美術館より芸術祭賞を受賞しました。
46歳のとき、アメリカ合衆国大統領より、メダル・オブ・ドリーム(自由勲章)を受賞し、全米芸術賞も受賞しました。
48歳のとき、父・次男との親子3代の展覧会を開催しました。
後にワイエス家の展覧会は度々開催されました。
49歳のとき、ペンシルヴェニア美術館にて大回顧展が開催されました。
不在を表した絵
アンドリュー・ワイエス《オイルランプ》1945年
50歳のとき、クリスマス・イヴにオルソン姉弟の弟アルヴァロが亡くなりました。
上の絵は彼がモデルです。(アルヴァロはモデルを務めるのがあまり好きではなかったとか)
51歳のとき、アルヴァロを追うように姉クリスティーナも亡くなりました。
アンドリュー・ワイエス《アルヴァロとクリスティーナ》1968年
上の絵は、2人の死後に描いた象徴的な肖像画です。
アルヴァロは、バスケット、バケツ、そのほかの家庭用品で表され、クリスティーナは、長年使用したことがわかる青いペンキで塗ってあるドアで表されています。
14歳の少女モデル
アンドリュー・ワイエス《ビキニ》1968年
クリスティーナが他界すると、ワイエスは彼女の葬儀で出会った14歳の少女シリ・エリクソンを次のモデルにしました。
彼女はオルソン姉弟とは対照的に若く生き生きとしており、そんな彼女をモデルに初めて本格的なヌードに挑戦しました。
運命の女性 ヘルガ
アンドリュー・ワイエス《編んだ髪》1977年
53歳のとき、病に倒れたカール・カーナーの看病に来ていた、38歳のドイツ移民の農婦ヘルガ・テストルフにモデルを依頼しました。
アンドリュー・ワイエス《髪を解いて》1972年
彼女を描いた〈ヘルガ・シリーズ〉の多くはヌードでした。
15年にわたってヘルガをモデルに240点以上もの作品が描かれていたことを、妻ベッツイとヘルガの夫も知りませんでした。
アンドリュー・ワイエス《恋人たち》1981年
というのも、ワイエスは昔から秘密主義だったことや、ヘルガもカール・カーナーの死後も彼の家で働いているということにしており、描いた大量の作品は近くに住むワイエスの教え子の家に隠してもらっていたため、誰にも気づかれることはありませんでした。
15年間、秘密にしていた理由については、妻が異性のヌードを描くときは「私の見えないところで」と言ったためともされていますが…。
シリの連作も、シリが法的に成人するまで発表しませんでした。
アンドリュー・ワイエス《プロイセン》1974年
ワイエスが4人の子持ちの若くはない人妻だったヘルガをモデルに描き続けたのは、彼女の内面からにじみ出る何かに惹かれていたことや、彼女が辛抱強く、寒い戸外に立たせても不平を言うこともなく、屋内では命じられたポーズを忠実に守り続けためだといわれています。
アンドリュー・ワイエス《果樹園で(果樹園のヘルガ)》1972年
ヘルガは家計を支えるため、工場労働や介護の仕事をしていたことから、有名な画家からのモデル依頼は、経済的にかなり助かっていたのではといわれています。
現存アメリカ人画家初の…
アンドリュー・ワイエス《メイデンヘア》1974年
59歳のとき、現存アメリカ人画家として初めてニューヨークのメトロポリタン美術館で個展を開催しました。
62歳のとき、数多くのモデルとなったカール・カーナーが亡くなりました。
世紀の密会
アンドリュー・ワイエス《溢れる》1978年
68歳のとき、<ヘルガ・シリーズ>に終止符を打ち(このときヘルガ53歳)、妻に作品のことを打ち明けました。
これを見た妻がどう思ったのかはわかりませんが、公には冷静な態度で受け入れ、ワイエスや自分たち家族の名誉を守るために、「ヘルガはただのモデル」(2人とも肉体関係は否定している)だとして、このシリーズを大々的に発表し、1人のアメリカ人コレクターに一括売却しました。
<ヘルガ・シリーズ>は雑誌にも掲載され、大評判となり、ワイエスは世界的に人気になりましたが、ヘルガとの関係は「世紀の密会」としてスキャンダラスに報道されました。
その後ヘルガは、有名人となってマスコミに顔を出すようになり、ワイエスが亡くなるまで、身のまわりの世話をする看護師という名目で彼の傍にいました。
71歳のとき、アメリカ合衆国議会よりゴールド・メダル大統領賞に推薦され、2年後に授与されました。
アンドリュー・ワイエス《結婚》1993年
80歳のとき、友人でモデルのウォルター・アンダーソンとアンナ・カーナーが亡くなりました。
90歳のとき、アメリカ大統領より芸術勲章を贈られました。
そして、91歳で亡くなりました。
まとめ
・ワイエスは、アメリカ東部の田舎に生きる人々を詩情豊かに描いた画家