こんにちは!
今回は、モローについてです。
早速見ていきましょう!
ギュスターヴ・モロー(1826-1898年)
ギュスターヴ・モロー《自画像》1850年
ギュスターヴ・モローは、フランスの象徴主義の画家です。
才能豊かな家
フランスのパリで生まれました。
父親は建築家、母親は音楽家(ピアノの名手)でした。
8歳頃から、デッサンするようになりました。
中学の寄宿生活中に妹カミーユが亡くなりました。
カミーユの死に落ち込んでいた母と父は、モローを呼び戻しました。
父親からは、たくさんの画集を与えられ、夢中で読み、絵を眺めました。
画家への道
17歳のとき、新古典主義の画家ピコに絵を教わりました。
20歳のとき、パリ国立美術学校に入学しました。
さらに、ルーヴル美術館に模写しに出かけていました。
当時、一流の画家として認められるためには、ローマ賞を取ることが必須でした。
そこで22、23歳とローマ賞コンクールに応募しますが落選し、その後学校を退学しました。
大好きな先生
24歳のとき、アングルの弟子シャセリオーの絵を見て感激し、弟子にしてほしいとお願いし、絵を教わりました。
モローはシャセリオーの隣に住み、部屋の中で黙々と制作し続けました。
26歳のとき、《ピエタ》がサロンに初入選します。
30歳のとき、シャセリオーが37歳で亡くなり、ショックのあまりアトリエに引きこもりました。
イタリアへ
31歳のとき、イタリアへ留学し、作風が確立されました。
イタリアで出会った若い画家たちに愛され、ランドリー氏(聖ランドリーという聖人の名)というあだ名で呼ばれました。
33歳のとき、アレクサンドリアン・デュルーという恋人ができました。
サロン
ギュスターヴ・モロー《オイディプスとスフィンクス》1864年
38歳のとき、上の作品をサロンに出品しました。
保守的なサロンでは物議をかもしましたが、称賛され、ナポレオン公の買い上げとなりました。
ギュスターヴ・モロー《オルフェウス》1865年
オルフェウスはギリシア神話に登場する詩人で、リラ(竪琴)の名手でした。
オルフェウスが奏でる美しい音楽は、鳥獣草木までも魅了したことから、絵に描かれるときは、リラを演奏する姿を人々や動物が囲み、その演奏に聞き惚れるという牧歌的な場面が選ばれていました。
しかしモローは、オルフェウスの悲劇に焦点を当てて描いたところに独自性があります。
オルフェウスは、亡くなった妻を黄泉の国から救い出そうとしますが、「後ろを振り返ってはならない」という約束を破り、妻を失います。
オルフェウスは嘆き悲しみ、他の女性に見向きもしなかったため、最期は女たちの恨みを買い、八つ裂きにされ、川に投げ込まれ、バルカン半島東部のトラキアの娘に拾われた場面が描かれています。
ちなみにモローも夜会で歌うほど美声だったとか。
ギュスターヴ・モロー《イアソン》1865年
40代は戦争に参加するまでサロンに出品し、個性派の画家としての評価が定着していました。
魔性の女サロメ
ギュスターヴ・モロー《サロメ》1876年
50歳のとき、7年ぶりに上の作品をサロンに出品しました。
モローの描く女性は、男を破滅させる魔性の女ファム・ファタルと言われ、世紀末に流行しました。
50代後半以降は、作品を発表せず、詩人や知識人に囲まれて、制作を続けました。
58歳のとき、象徴主義の文学者ユイスマンスが《サロメ》を絶賛しました。
生涯唯一の個展
ギュスターヴ・モロー《化粧》1885-1890年頃
60歳のとき、グーピル画廊で生前唯一の個展を開きました。
62歳のとき、アカデミーの会員に選ばれました。
64歳のとき、恋人アレクサンドリアンが亡くなりました。
いい先生
66歳のとき、国立美術学校教授となり、ルオー 、マルケ、マティスたちを教えました。
しかしモローは指導するというよりも、生徒たちの個性を尊重し、その才能を伸ばすため、好きにさせ、自身のスタイルを押し付けることを嫌い、ある意味傍観者のような立場を取っていました。(生徒たちからも好かれていたそう)
ギュスターヴ・モロー《ユピテルとセメレ》1895年
72歳のとき、亡くなりました。
自宅を美術館にする計画は、5年後に実現し、モローの遺言により、モロー美術館の初代館長はルオーが務めました。
まとめ
・モローは、神話の世界を幻想的に描いた象徴主義の画家