こんにちは!
今回は、モディリアーニの内縁の妻ジャンヌについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ジャンヌ・エビュテルヌ(1898-1920年)
ジャンヌ・エビュテルヌは、パリで生まれました。
フジタのモデルだった
画家を目指していた兄に、モンパルナスの芸術家村に連れて行かれ、藤田嗣治のモデルとなりました。
ジャンヌも画家だった
ジャンヌ・エビュテルヌ《モディリアーニの肖像》1919年
ジャンヌも画才を発揮し、美術界に入ることを望んだため、アカデミー・コラロッシに入塾しました。
モディリアーニとの出会い
19歳のとき、美術学校のモデルを務めていた女性彫刻家ハナ・オルロフからモディリアーニを紹介されます。
2人は恋に落ち、熱心なローマ・カトリック信者の家族の反対を押し切って、ユダヤ人のモディリアーニと同棲し始めます。
ジャンヌは穏やかで内気で無口で繊細だったそう。
モディリアーニにとって従順なジャンヌは理想のモデルだったようで、数多くの作品をしています。
彼女は、描かれることが愛の証だと考えており、長時間同じポーズをとり続けたそう。
20歳のとき、娘ジャンヌが生まれました。
この頃のモディリアーニは、アルコールや薬物などによって持病の結核が悪化し、衰弱し切っていました。
「天国までついてきてくれないか。」
貧困と肺結核に苦しみ、不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日、35歳のモディリアーニはアトリエで倒れ、医者にもかからず2日後に、結核性髄膜炎で亡くなりました。
というのも、瀕死のモディリアーニを発見したジャンヌは、医者を呼ぶでもなく、放心状態で横に座っていたといわれています。
死の直前、モディリアーニはジャンヌに「天国までついてきてくれないか。そうすれば、あの世でも最高のモデルを持つことができる」と言ったそう。
モディリアーニの後を追って…
ジャンヌの家族は彼女を自宅に連れて帰りましたが、本人はすっかり錯乱状態にあり、モディリアーニの死の2日後、妊娠9ヶ月だった彼女はお腹の子を道連れに、集合住宅の5階の窓から身を投げました。
ジャンヌの遺族は、彼女の自殺はモディリアーニのせいだとして、彼女の亡骸をバニュー墓地に埋葬しました。
それから約10年後に、エビュテルヌ一家はとうとう折れて、渋々ながらもペール・ラシェーズ墓地のモディリアーニの傍らにジャンヌの亡骸を改葬することに同意しました。
墓碑銘には、「究極の自己犠牲をも辞さぬほどに献身的な伴侶であった」と記されています。
娘のその後
孤児となった娘ジャンヌは、モディリアーニの妹マルゲリータの養女となりました。
両親のことは何も知らずに成長し、成人してから両親についての調査を始め、1958年にモディリアーニについて評伝を著しました。
モディリアーニが描いたジャンヌ
《青い瞳(ジャンヌ・エビュテルヌの肖像)》1917年
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1918年
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1918年
《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》1918年
《座っているジャンヌ・エビュテルヌ》1918年
《ジャンヌ・エビュテルヌと黄色いセーター》1918-1919年
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年
モディリアーニにしては珍しく、瞳が描かれています。
ジャンヌの瞳に、強い意志を感じたのでしょうか。
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年
この絵も瞳が描かれています。
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年
《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1919年