ミレーの「晩鐘」を超解説!棺桶が描かれていた?国同士で奪い合う?

こんにちは!

今回は、ゴッホやダリに大きな影響を与えたミレーの代表作《晩鐘》について解説します。

早速見ていきましょう!

晩鐘

ジャン=フランソワ・ミレー《晩鐘》1857-1859年

どんな絵?

1日の仕事の終わりを告げる晩鐘が鳴り響き、それを合図に農民夫婦が手を休め、神と祖先に感謝の祈りを捧げる様子を描いた作品です。

アンジェラスの鐘

《晩鐘》の原題は《アンジェラスの鐘》です。

 

遠景にはフォンテーヌブローの森のはずれ、シャイイ村の教会の尖塔が見えます。

カトリック教会では、毎日3回捧げる「お告げの祈り(天使から聖母マリアへのキリストの受胎告知を祝し感謝する祈り)」の時間を知らせます。

祈りの文言がラテン語で「アンジェラス ドミニ(主の御使い)」の言葉ではじまることから「アンジェラスの鐘」と呼ばれています。

後に、どこにいてもこの鐘を合図に「アベ・マリア」と唱える信心が生まれました。

「アンジェラス(=エンジェル)の祈り」には、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終の時も、どうぞお守りください」との言葉があります。

多くは午前6時、正午、午後6時の3回で、民衆が時計を持たない時代に正しい時刻を知らせると共に、生活に深い宗教的影響を与えました。

ジャガイモの入ったカゴ

 

足元にあるのは、じゃがいもが入ったカゴです。

ジャガイモは、パンを食べられない貧民の主食でした。

夫婦の周りに置かれた鍬や押し車、じゃがいもなどの収穫物は、2人の労働に対する真摯な態度を表しています。

赤ちゃんの棺?

X線写真を見ると、土の下に赤ちゃんの棺が埋まっているように見えることから、夫婦がその死を慎んでいる絵なのでは?と考える人もいました。

しかし実際には、ミレーがカゴの位置を描き直した結果そう見えているだけであって、棺が描かれているわけではありませんでした。

祖母との思い出を絵に

ミレーによると、畑仕事をしていた祖母が、鐘の音が聞こえるたびに、自分たちの仕事の手を止めさせて、死者に祈りを捧げるよう言った、という思い出を元に描いたと、ミレー自身が友人への手紙に書いています。

顔がない

描かれている農民の妻のモデルは、ミレーの家の近くで洗濯屋を営んでいた女性でした。

彼女は、村で評判の美女でした。

なのに、ミレーは顔をはっきりと描いていません。

そうすることによって、人種や国籍に関係なく、絵を見た人が感情移入できるようになっています。

また、妻にだけ光が当たっているのは、祈りを捧げるのは本来女性の役目であるとミレーが考えていたためともいわれています。

依頼者が引き取りにこなかった

1857年初め、ボストンのコレクタートマス・ゴールド・アップルトンから注文を受け、夏には作品を完成させました。

しかしアップルトンは引き取りに来ませんでした。

そこでミレーは、1860年、パプル伯爵に1000フランで売りました。(1859年に2500フランで売ったとの説も)

政治的利用

《晩鐘》を描いた頃のミレーは、貧乏でした。

妻と7人の子供を養うために、なんとか絵を売りたい!と考えていました。

当時のフランスは、産業革命によって貧富の差が拡大し、農民や労働者階級ブルジョワ階級対立が高まっていました。

そのためミレーの作品は、農民の悲惨な生活を訴える政治的メッセージのある絵だと受け止められ、農民や労働者からは支持され、ブルジョワからは危険な絵だと批判されます。

この騒動を逆手に取ったのが、ナポレオン3世でした。

国民の投票で選ばれたナポレオン3世からしてみれば、国民の大多数を占める農民からの指示を得ることが重要でした。

そこで1867年のパリ万博ミレー展を開き、《晩鐘》を展示します。

農民を描いた絵を政府が評価したことによって、農民を自分たちの方に取り込もうとしました。

政府のお墨付きをもらった《晩鐘》の評価は急激に上がり、高く評価されます。

一般家庭に広まる

当時開発されたばかりだった写真製版技術によって、複製画が雑誌やカタログに掲載され、一般家庭にまで、その人気は広がっていきました。

高額で売買

大人気の絵なので、売買されるたびに取引価格が上がっていきました。

1872年には、当時最高クラスの価格3万8000フラン(約3800万円)で取引されていました。

ミレーは嫌がっていた

「絵」が評価されたかったミレーからしてみれば、政治的に利用されて、もてはやされているこの状況がとても嫌だったそう。

国を挙げての争奪戦

1889年、フランス革命100周年の記念行事としてパリ万博の開催が決定します。

当時の美術局長アントナン・プルーストは、《晩鐘》を国で購入して、パリ万博で展示しようと考えました。

しかし同じ頃、アメリカでも《晩鐘》を買い取る計画が進んでいました。

そもそもアメリカでは宗教色の強くない絵が人気でした。(日本もそうですね)

どういうことかというと、ミレーの絵は、十字架やキリストや聖人をこれ見よがしに描くような絵ではなく、清貧な農民の姿からを感じることができる、ちょうど良い絵だったんです。

運命のオークション

1889年7月1日、ついに《晩鐘》がオークションにかけられます。

フランスvsアメリカの戦いが始まります。

30万フランから始まった値段は、どんどんつり上がっていき、そしてアメリカが55万フランというびっくりするような額を提示します。

こういうオークションって、当然その場のノリで金額を決めているわけではなくて、予算というものがあります。

もうこの時点で両者の予算は限界を超えていました。

しかし、最後の意地を見せたフランス55万3000フラン(5億5300万円)で落札します!

落札したのですが、先ほども言ったようにオークションには最初に決めていた予算があります。それを元に担当者が入札します。

当初の予算を大きく超えた金額だったため、なんとフランス政府が支払いを拒否…。

結局、絵はアメリカのニューヨークへ渡り、アメリカ各地で展覧会が開催され、大人気になりました。

でもこれで終わらないのがこの絵のすごいところで…

300倍に価格高騰と男気

フランスのデパート王アルフレッド・ショシャールが、「《晩鐘》は国の宝。祖国フランスにあるべきだ」と、私財を投じて8億円で買い戻し、1909年、ルーヴル美術館に寄贈しています。

これは当初の300倍の値段でした。男気〜!!!

そして現在は、パリのオルセー美術館で見ることができます。