ルノワール「ポン・ヌフ、パリ」を超解説!橋は社交場だった?

こんにちは!

今回は、ルノワールの《ポン・ヌフ、パリ》についてです。

早速見ていきましょう!

ポン・ヌフ、パリ

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ポン・ヌフ、パリ》1872年

ルノワールがこの絵を描いた頃というのは、薄汚くて不潔だったパリの街が美しく整備され、街が豹変した時代でした。

街が美しくなると、外出が楽しくなります。

公園ばかりでなく、メインの大通りや広い橋までが、野外社交場になりました。

 

上流階級人士は羨望の視線を浴びたくて無蓋馬車に着飾って座り、ロンシャン競馬場や友人宅への待ち合わせ場所として使いました。

中流階級の人々には、カフェやレストランやデパート(世界初のデパートは1852年のパリ発)など、 目新しい楽しみが目白押しでした。

そして労働者や貧しい学生たちにとっても、街はそぞろ歩くだけでも飽きませんでした。

ルノワールの上の絵にも、そんな賑わいが見てとれます。

ボン・ヌフというのは「新しい橋」という意味の、実際にはパリ「最古」の橋です。(余談ですが新橋にある有名なナポリタンの店の名も「ポンヌフ」です)

 

行き交う馬車、警官、物売り、兵士、子連れ、恋人たちなどなど、青空のもと、これを描いているまだ貧しかった画家自身も含め彼らは、誰もが、近代都市そのものを満喫しているかのように、空の雲さえ陽気です。

ルノワールは、ポン・ヌフ近くにあるカフェ上階の部屋を借りてこの絵を制作したといわれています。

 

向こう岸には、アンリ4世の騎馬像とシテ島の街並みが広がっています。

 

ルノワールの弟エドモンの回想によると、兄が素早くスケッチできるように、橋を渡る人に声をかけて少しの間立ち止まらせたんだとか。

 

 

麦わら帽をかぶり、ステッキを携えた2人の男性はともに弟のエドモンがモデルだといわれています。