こんにちは!
今回は、ブランド商法で大成功した画家クラーナハを紹介します。
早速見ていきましょう!
ルーカス・クラーナハ(1472-1553年)
ルーカス・クラーナハ(子)《自画像》1550年
ルーカス・クラーナハは、ルネサンス期のドイツの画家です。
父親も画家
ドイツの小さな村クローナハで生まれました。
父親も画家で、26歳頃まで父親の工房で修行していました。
29歳のとき、大都市ウィーンで画家として身を立てるため上京します。
ウィーン大学の人文学者サークルに入り、知識人たちと交流しました。
宮廷画家に
ルーカス・クラーナハ《フリードリヒ3世の肖像》1530-1535年
33歳のとき、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢侯)の宮廷画家になり、ザクセンの首都ヴィッテンベルクに移住しました。
ヴィッテンベルクは、宗教改革の発祥地です。
賢侯の死後も、堅忍侯、豪胆公と3代にわたるザクセン選帝侯に仕え絵を描きました。
「クラーナハ」ブランド誕生
ルーカス・クラーナハ《メクレンブルク公爵夫人カタリーナ》一部分 1514年
36歳のとき、フリードリヒから盾形紋章を賜ります。
冠をつけた翼のはえたヘビが輪をくわえています。
以降、クラーナハはサインの代わりにこの紋章を絵の中に描き込んでいます。
ルーカス・クラーナハ《メクレンブルク公爵夫人カタリーナ》1514年
親友はルター
ルーカス・クラーナハ《マルティン・ルター》1529年
フリードリヒがヴィッテンベルクに大学をつくり、クラーナハやルターなど各方面の文化人を呼び集めました。
ヴィッテンベルクに講義のためにやってきたルターとクラーナハは親友になります。
ルターの話は支持者を集め、プロテスタントが誕生しました。
結婚
41歳のとき、バルバラ・ブレングビアーと結婚しました。
5人の息子のうち、2人は工房で働かせ、跡を継がせました。
45歳のとき、ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に「95カ条の論題」を貼り出し、カトリックに対して抗議したことで、宗教改革の口火を切りました。
薬屋も、印刷屋も始める
48歳のとき、薬局の営業許可を受けて、薬、ワイン、香辛料、砂糖などを売り、大きな利益を得ていました。
49歳のとき、ルターは、教皇から破門され、身の危険を感じ、フリードリヒの城に逃げ込んでいました。
城に隠れていた1年の間に聖書をラテン語からドイツ語に訳しました。
51歳のとき、印刷業も開業、後にルター訳聖書を出版し、大儲かり。
大人気
40代後半には、10人以上の画家を抱える大工房の親方になっており、クラーナハブランドの絵を大量生産していました。
ちなみにこの大工房は、薬やワインなどを売っている店の裏にあったそう。
世界中の主要な美術館には、大抵クラーナハの絵があるといわれるほど、クラーナハの絵は多く残っています。
ルーカス・クラーナハ《ウェヌスとクピド》1526-1527年
ヴィーナスの足元の石に「クラーナハ」印がちゃんとあります。
ルーカス・クラーナハ《ホロフェルネスの頭部をもつユディト》1530年頃
ユディトは、エルサレム近郊に住む美しい寡婦で、、敵国アッシリアの将軍ホロフェルネスを誘惑し、酒に酔って眠るホロフェルネスの首を切り落として、ユダヤ民族を守ったという女傑です。
《サロメ》1530年頃
上の絵と似ていますが違う女性です。
聖書に登場するサロメは、洗礼者ヨハネの首を踊りの褒美として求めた王女です。
ルーカス・クラーナハ《ヴィーナス》1532年
息子も画家に
ルーカス・クラーナハ(子)《キリストと姦淫の女》1532年以降
61歳のとき、長男ハンスが工房を手伝い始めます。
65歳のとき、ハンスが亡くなり、次男のルーカルに代わりました。
ヴィッテンベルク市長に就任しました。
68歳、71歳のときにも市長を務めています。
カトリックからもプロテスタントからも大人気
1544年、72歳のとき、カトリックとプロテスタントの対立が激化し、ヴィッテンベルクがカトリック派に包囲されてしまいまます。
ところが、クラーナハだけは、安全に包囲をくぐり抜けることができました。
なんとクラーナハを脱出させたのは、カトリック本山の神聖ローマ皇帝でした。
80歳のとき、公国君主になったフリードリヒ候とともにワイマールへ移ります。
そして81歳で亡くなりました。
まとめ
・クラーナハは、ブランド商法で絵を売りまくった画家