こんにちは!
今回は、「アルプスの少女ハイジ」のアルムおんじみたいな画家セガンティーニについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899年)
ジョヴァンニ・セガンティーニ《自画像》1893年
ジョヴァンニ・セガンティーニは、イタリアの画家です。
最愛の母との早すぎる別れ
1858年、オーストリアのトレンティーノ(現在はイタリア)の、アルコで生まれました。
父親は農民階級の大工で、職を求めて転々とし、母親は中等階級中のやや低い身分の出でした。
兄は、セガンティーニが1歳のときに火事で亡くなり、母親は、重度のうつ病に罹ってしまいました。
セガンティーニは、生まれた頃は体が弱く、兄のこともあって、相当注意深く育てられたそう。
しかし母親は、セガンティーニを生んでから病にかかり、7歳のときに亡くなってしまいました。
早すぎる別れによって母親は理想化され、後年の作品に影響を与えることとなります。
少年院へ
父親はセガンティーニを、先妻との間に儲けた娘(異母妹)アイリーンに預け、仕事を探しに出かけました。
父親は、帰ってくることもなく、子供たちにお金残すこともなく、1年後放浪先で亡くなりました。
残された2人の生活は困窮し、アイリーンは毎日仕事に行かねばならず、1人放置されたセガンティーニは路上生活者のような暮らしをしていました。
アイリーンは、もっと稼ぎのいい仕事を探してミラノに引っ越すことにし、オーストリア国籍を捨てますが、なぜかイタリア国籍を取得する手続きをしなかったため、2人は生涯無国籍のまま生活することになりました。
13歳のとき、ミラノで路上生活をしていたセガンティーニは、窃盗の仲間に加わったことから警察に補導され、少年院へと送られ、そこで木炭画と靴作りを学びました。
ちなみにセガンティーニが読み書きできるようになったのは30歳以降でした。
少年院の教戒師が、セガンティーニの絵の才能を見抜き、画家になるよう応援しました。
15歳のとき、少年院を出て、異母兄のナポレオンと生活することになり、彼の写真スタジオ&化学薬品の店を手伝いました。
専属契約
ジョヴァンニ・セガンティーニ《聖アントニオ合唱の間》1879年
17歳のとき、ブレラ美術学校に入学し、絵の勉強をしました。
21歳のとき、上の作品を描き注目を集めました。
ミラノ市美術協会に買い取られ、画商ヴィットーレ・グルビシーと専属契約を結びました。
彼はセガンティーニを長年にわたって支援しました。
22歳のとき、ミラノでアトリエを借り、制作しました。
結婚したいのに…
友人のデザイナーの妹ルイジア・ブガッティと結婚しようとしましたが、国籍がないため書類を揃えることが出来ず、結婚は諦め、同棲を始めました。
しかし、カトリック教会から目をつけられ、数年ごとに移住しなければなりませんでした。
2人の間には4人の子供が生まれました。
キリスト教徒にも関わらず、子供たちに洗礼を授けなかったようで、社会的習慣や決まりごとに縛られることを極度に嫌っていたことがわかります。
画家としての成功
ジョヴァンニ・セガンティーニ《湖を渡るアヴェ・マリア》1886年
25歳のとき、上の作品がアムステルダム万国博覧会で金賞を受賞しました。
この頃には、絵が高値で売れるようになりました。
ハイジのおんじのような生活へ
ジョヴァンニ・セガンティーニ《干し草の収穫》1888-1898年
28歳のとき、明るい光を求めてスイスのサヴォニンに移住しました。
ただ、この移住には、ルーズで無頓着な生活から州税を滞納して支払えなくなったためという理由もあったそう…。
ジョヴァンニ・セガンティーニ《森からの帰還》1890年
セガンティーニは、アルプスの山々や、そこで生活する人々を描きました。
アルプルの澄んだ空気と強烈な高地の光を描くために、独自の色彩分割法を生み出しました。
ジョヴァンニ・セガンティーニ《アルプスの真昼》1891年
セガンティーニ独特のまぶしいほど明るい空の青は、絵の具をパレットで混ぜずに、濃い原色の青と白や赤の細長い線をキャンバスの上に直接重ねて描くことで表現しています。
この方法で描くと、離れて見たときに、原色の輝きを残したまま目の中で色が混ざり、より明るく見えます。
セガンティーニはこの独特の画法を駆使し、高原の輝く光に包まれた人々の幸福を描こうとしました。
アルプスの風景+神秘的な雰囲気
ジョヴァンニ・セガンティーニ《淫蕩の罰(涅槃のプリマ)》1891年
33歳のとき、夢中になって読んだ文学や哲学の本のなかの思想や神秘性を、アルプスの自然の中で表現した絵を描くようになり、象徴主義の画家としても有名になりました。
ジョヴァンニ・セガンティーニ《悪しき母たち》1894年
さらに高いところへ移住
ジョヴァンニ・セガンティーニ《アルプスの真昼》1892年
36歳のとき、より標高の高いエンガディン地方マロヤに移住しました。
画商グルビシーとの専属契約を解消し、別の複数の画商との契約に切り替えました。
セガンティーニの売り込みや報酬の事務処理、スケジュール管理、社会の動向を伝授して需要のある作品作りを促すなど、ルーズな性格のセガンティーニの成功は、彼が居てこそでした。
セガンティーニをしっかり管理してくれていたグルビシーとの契約を切らなければ、セガンティーニはもしかしたら、もっと長生き出来たかもしれません…。
ジョヴァンニ・セガンティーニ《悪しき母たち》1896-1897年
ジョヴァンニ・セガンティーニ《虚栄心》1897年
遺作の三部作
ジョヴァンニ・セガンティーニ《生》1896-1899年
ジョヴァンニ・セガンティーニ《自然》1896-1899年
ジョヴァンニ・セガンティーニ《死》1896-1899年
40歳のとき、遺作となった《生》《自然》《死》の三部作の制作に取り掛かりました。
「自然」は生と死を結びつけ、全てを調和させるものとして描かれ、この3枚で生命の輪廻を表現しています。
マロヤからさらに1000m高地のシャーフベルグまでのぼり、ここに粗末な小屋を立てて制作を始めました。
41歳のとき、この小屋に入ったセガンティーニは、強い腹痛を感じましたが、我慢して《自然》の制作を進めました。
実はそれは盲腸炎で、制作に熱中している間に腹膜炎を併発し、取り返しのつかない病状になり、家族が発見したときにはすでに手遅れでした…。
セガンティーニの最後の言葉は、「私の山が見たい」だったといわれています。
まとめ
・セガンティーニは、アルプスを描いたハイジのおんじのような画家