こんにちは!
今回は、クリムトの運命の人エミーリエを紹介します。
早速見ていきましょう!
エミーリエ・フレーゲ(1874-1952年)
《クリムトとエミーリエ》1900-1905年
エミーリエ・フレーゲは、オーストリアのファッションデザイナーであり、実業家でした。
義理の妹
エミーリエは、義理の妹(クリムトの弟の妻の妹)で、クリムトより12歳年下でした。
ファッションデザイナー
彼女は、当時としては珍しく、経済的にも精神的にも自立しており、モード・サロンの経営もしていました。
上の写真で2人が着ているのは、エミーリエがデザインしたドレスです。
逆にエミーリエのために、クリムトが服をデザインしたこともありました。
エミーリエは、コルセットからの女性の解放をコンセプトに服を作っていました。
当時、このあまりにも革新的すぎるファッションの顧客は少なく、生計を立てることができませんでした。
しかし、クリムトがウィーンの上流階級の女性を多く描いていたこともあり、彼女たちにエミーリエを紹介し、仕事を得ることができたんだとか。
プラトニック・ラブ???
《エミーリエ・フレーゲの肖像》1902年
2人は27年間親しい関係を続けましたが、結婚することはありませんでした。
頻繁に手紙をやりとりしたり、一緒に避暑地に出かけたりしていました。
2人の関係性としてよく「プラトニックな関係だった」と解説されがちなのですが、個人的にはそうではなくて、「精神的なつながりの方が勝っていた」だけなのでは?と思っています。
というのも、クリムトは「官能の画家」、女性が大好きで、アトリエには常に裸の女性がウロウロ、休憩時には手当たり次第そのモデルを抱く…
という毎日で、わかっているだけでも14人も子供がいた画家が、エミーリエだけ抱いていないというのは、さすがに違うでしょ…としか思えませんねぇ…。
金箔のアイデア
《接吻》1908-1909年
クリムトが制作に行き詰まり、描けない日々を過ごしていたある日、エミーリエが手つかずの真っ白なキャンバスに、金箔を置きました。
それがインスピレーションとなり、《接吻》など、金箔を多用する豪華絢爛な絵画を生み出していきます。
《接吻》のモデルも、一説ではクリムトとエミーリエだといわれています。
死の間際に呼んだのはエミーリエ
55歳で倒れたクリムトの最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」でした。
エミーリエは、クリムトの死後、クリムトとの手紙をほとんど処分し、生涯独身を貫きました。