こんにちは!
今回は、ゴッホのサン=レミ時代を解説します。
早速見ていきましょう!
サン=レミの療養所へ
サン=レミ療養所へ
《サン=ポール病院の庭に立つ人物と松の木々》1889年
36歳のゴッホは、アルルの病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、居場所を見つける必要に迫られていました。
《サン=ポール病院の庭の木々》1889年
レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていましたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめまます。
《サン=ポール=ド=モソルの教会の眺め》1889年
最終的に、4月下旬、弟テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼みました。
当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境でした。
《サン=レミのサン=ポール病院の廊下》1889年
《サン=ポール病院のエントランス・ホール》1889年
《サン=ポール病院の庭》1889年5月
ゴッホは、サル牧師に伴われ、サン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所に入所しました。
《サン=ポール病院の庭》1889年
《アイリス》1889年5月
ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描きました。
《日の出の春小麦の畑》1889年
また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描きました。
《刈り取りをする人のいる麦畑》1889年
サン=レミの療養所で暮らし始めた当初、ゴッホは外出が許されていませんでした。
自室からは、さんさんと照る太陽のもとで、ひたすら麦を刈る労働者の姿が見えました。
ゴッホは、「僕はその時、この刈る人に、酷暑のもと自分の仕事をやりとげようと悪鬼のように闘っている人物に、人間は刈りとられる麦のようなものだという意味で、死のイメージを見た。だからこれは、いわば前に試みた種まく人と対をなすものだ」と語りました。
ゴッホにとって「刈る人」とは、「自然という偉大な書物がわれわれに語ってくれる死のイメージ」でした。
《オリーブの木々、背景にアルピーユ山脈》1889年
《糸杉》1889年6月
病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようにもなりました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年
ゴッホはテオの妻ヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送りましたが、テオがどんどん遠くへ行ってしまうように感じ、複雑な心境も覗かせています。
発作を繰り返す
《サン=ポール病院の看護主任トラビュックの肖像》1889年
ゴッホの病状は改善しつつありましたが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなく、野外で絵を描いている最中に、再び発作が起きました。
その後意識は清明に戻り、上の絵などを制作しました。
《片目の男の肖像》1889年
ゴッホは当初、療養所の他の患者を恐れていましたが、次第に慣れ、数人の肖像画を制作しました。
上の絵もその中の1枚です。
《プラタナス並木通りの道路工事》1889年
クリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まりました。
アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われました。
テオに息子が生まれたお祝いとしての絵
《花咲くアーモンドの木の枝》1890年2月
テオとヨーの間に息子(ゴッホと同じ名前のフィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って、2月に上の絵をを描いて贈りました。
テオに子供が生まれたのをとても喜びましたが、テオにはもう世話をするべき家族がいて、自分をサポートする余裕がなくなるのではと心配しました。
《アルルの女(ジヌー夫人)》1890年2月
ゴーギャンがゴッホとの共同生活時代、《アルルの夜のカフェ》を描く際に、準備のため、ジヌー夫人のスケッチを用意していました。
そのゴーギャンの素描をもとに、療養中のゴッホはジヌー夫人の絵を複数枚描いたりして創作を続けましたが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になりました。
《囚人の運動(ドレを模して)》1890年2月
37歳のとき、ペロン院長はテオに、ゴッホの回復が遅れている様子を伝えています。
また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されています。
《アイリス》1890年
《バラ》1890年
評価され始める
一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていました。
評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せました。
さらに、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの《ひまわり》など6点が出品されて好評を博しました。
この展覧会で《赤い葡萄畑》が初めて400フラン(約40万円)で売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられました。
パリで開かれたアンデパンダン展に10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っています。
最期の地オーヴェル
《糸杉と星の見える道》5月12-15日
体調が回復したゴッホは、最後に上のを描いてから、サン=レミの療養所を退所し、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地しました。