ルーヴル美術館で1番大きい絵ヴェロネーゼ「カナの婚礼」を超解説!

こんにちは!

今回は、ヴェロネーゼの《カナの婚礼》についてです。

早速見ていきましょう!

カナの婚礼

パオロ・ヴェロネーゼ《カナの婚礼》1562-1563年

ヴェロネーゼ34歳のとき、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト会修道院の食堂の壁全体を覆うようにこの絵を描きました。

修道士から、空間が奥まで続いているように描くようにと注文を受けて描いた作品でした。

契約書には、使用する顔料の品質と種類も最上級のものを使うこと(なので空の青はもちろんラピスラズリを使用した非常に高価なウルトラマリンを使用)、可能な限り多くの人物像を描くことなどが盛り込まれていました。

ルーヴル美術館で1番大きい絵

6.77×9.94メートルもある超巨大な作品で、所蔵先のルーヴル美術館で最大サイズの作品です。

水をワインに変えた「最初の奇跡」

 

『新約聖書』にあるイエス最初の奇跡が絵のテーマです。

ガラリアのカナで婚礼に招かれたイエスが、水をワインに変えたというエピソードが描かれています。

1週間ほど続く婚礼の途中で、ぶどう酒が無くなってしまいました。

招待する側としては、それはあってはならない大変恥ずかしい事態でした。

 

そこで、聖母マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなりました」とだけ言うのですが、これはそれとなく「神の子なんだからこれくらいどうにかできるでしょ?助けてあげて」と伝えています。

これに対しイエスは、「婦人よ」と何故か他人行儀に呼びかけ、「私とどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と返答します。…反抗期かな…。

マリアは、イエスの返答を無視し(笑)、召使い達に「この人が何か言ったら、その言いつけにならってください」と言いました。

 

イエスが「水がめにいっぱいに水を入れなさい」「それを汲んで、宴会の世話役へ持って行きなさい」と召使い達に言いました。

 

このぶどう酒がどこから来たのか知らない世話役が、ぶどう酒に変化した水を味見します。

世話役は花婿に「誰でも、宴の初めのうちに良いぶどう酒を出し、皆が酔った頃には質の劣るぶどう酒を出すものです。しかしあなたは、良いぶどう酒を今まで取っておかれたのですね」と言いました。

というシーンが描かれています。

意外にも、イエスと母マリアが直接会話を交わすことは少なく、聖書の中でも珍しい場面です。

有名人大集合

 

中央にいるのがイエス、その右が聖母マリアです。

右側には聖職者、左側にはフランス王フランソワ1世、トルコ皇帝スレイマン1世という現実にはあり得ないメンバーが大集合しています。

 

この宴の主役である新郎新婦は、左端に追いやられています。

実際の婚礼で、新郎新婦がこんな端の席に着くことはありません。

この絵では、イエスとマリアが主役なので、端に描かれています。

 

ヴィオラを弾く白い服の楽士がヴェロネーゼ、その右の肩越しに顔を覗かせている緑の服がティントレット、赤い服がティツィアーノです。

3人は、ヴェネツィアを代表する巨匠です。

手前の机に置かれた砂時計「わたしの時はまだ来ていません」というイエスの言葉を暗示しています。

多くの人々が登場し、過去と現在聖と俗が混在しています。

イエスの真上にある肉の意味とは?

 

イエスの真上のテラスでは、子羊の肉が切り分けられています。

これはイエスの受難(将来イエスが神の子羊として処刑されること)を予告しています。

何かを投げてる?

 

画面右上のバルコニーから、女性が何かを投げています。

何を投げているのか探してみると…

 

彼女の下を見ると、野バラが落ちていくのがわかります。

 

ここでも野バラが舞っています。

野バラは、聖母マリアのアトリビュート(持ち物)です。

返還拒否

《カナの婚礼》は、1797年、ナポレオン軍の北イタリア侵攻の勝利によって接収されました。

修道院の壁からはがし、2枚に切断し、ぐるぐる巻きにしてパリまで船で運んだそう。

こういった芸術品略奪は戦争では珍しくありません。

ルーヴル美術館にはそうした作品がいくつもあります。

この作品もイタリアから返還要求された際に、ルーヴル美術館は「大きすぎて運べない」「額から外すと絵が痛むかもしれない」と返答しています…。

当時、フランスは、同じくヴェロネーゼの作品《レビ家の饗宴》という、《カナの婚礼》より大きい絵の返還には合意していたり、第二次世界大戦が起こると、ナチスの略奪を逃れるため、額からはずし、ぐるぐる巻きにして運び出していたことから、「大きすぎて運べない」わけではありませんでした。

結局、《カナの婚礼》の代わりにシャルル・ルブランの《シモン家の饗宴》を送ることで、イタリアが合意し、この絵はルーヴルに残ることになりました。

イタリアがどうして譲歩したのかは、「作品の返還よりも作品の保護を重要視した」「他にも同じような案件がたくさんあり、この絵にばかり構ってられなかった」など諸説ありますが、一番はフランスが渋りに渋ったことが原因でしょうね…。