自分も死ぬなら全部始末する?ドラクロワ「サルダナパールの死」を解説!

こんにちは!

今回は、ドラクロワの《サルダナパールの死》を解説します。

早速見ていきましょう!

サルダナパールの死

ウジェーヌ・ドラクロワ《サルダナパールの死》1827年

約4 × 5メートルある超巨大な作品です!

どんな絵?

ドラクロワが29歳のときに、ロマン主義の作品である詩人バイロン作の戯曲『サルダナパール』に基づいて描いた作品です。

メソポタミア北部にあった古代アッシリアの最後の王サルダナパールの最期の場面を描きました。

バイロンの戯曲では、王宮を敵に包囲され、サルダナパールは自分の財産破壊し、愛妾寵馬殺害するよう命じ、自身で火をつけ死ぬことによって、敗北という恥辱を免れようとしました。

この物語をドラクロワは、サディスティックな美として描きました。

解説

 

サルダナパールは、自身の世俗の財産が破壊されるのを無表情・無感情そして冷酷に眺めています。

サルダナパールは、ドラクロワの自画像だといわれています。

火をつける前のシーンですが、画面全体に赤が散りばめられているため、火と血を連想させ、燃えているようにも見えます。

王を中心に、阿鼻叫喚の人物たちの身をよじり抗う動きに、白い馬と従者の褐色の肌、女たちの乳白色の裸体と背景の鮮烈な赤というように、鮮やかな色彩のコントラストが呼応しています。

 

ベッドの上に倒れている裸の女性は、王の愛妾です。

 

別の愛妾が殺される瞬間を描いています。

彼女はルーベンスの《マリー・ド・メディシスの生涯〈マルセイユ上陸〉》の、海の精のポーズからきています。

 

奴隷が寵馬を引き寄せ、殺そうとしています。

評判

1827年のサロンに出品するも、不評

「派手すぎ!やりすぎ!」というのが主な理由でした。

当時のサロン的には、豊かで鮮明な暖かい色彩と、様々なタッチで描いているのが気に入らなかったのでしょう。

国家は買い上げを見送りました。

虐殺第2号

この作品は、ギリシャ独立戦争を取材した《キオス島の虐殺》に続く虐殺性の強い作品でした。

ドラクロワ自ら、「虐殺第2号」と語っていたといわれています。

ミニ版も描いていた

ウジェーヌ・ドラクロワ《サルダナパールの死》1844年

こちらは73.71 × 82.47 cmと上の絵の5分の1くらいのサイズです。

大きいサイズの絵を販売する前に、小さいサイズを描いたのではと考えられています。

ウジェーヌ・ドラクロワ《サルダナパールの死 スケッチ》1826-1827年

こちらは本番前にスケッチとして描いた作品です。