仲良しモネとルノワールが一緒に描きに行った絵「ラ・グルヌイエール」を超解説!

こんにちは!

今回は、モネルノワールが一緒に絵を描きにいったときの作品を紹介します!

早速見ていきましょう!

モネとルノワールの《ラ・グルヌイエール》

クロード・モネ《ラ・グルヌイエール》1869年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年

印象派誕生のきっかけに

1869年の夏、パリ郊外プージヴァルに暮らしていたモネは、近所のルーヴシエンヌに滞在中のルノワールと連れ立って、パリ市民の週末のリゾートとして人気だったセーヌ川沿いにあるボート遊び&水浴場のあるラ・グルヌイエールに出かけました。

そして経済的に困窮していた時代の2人が、仲よくカンヴァスを並べて 制作した作品が《ラ・グルヌイエール》です。

翌年のサロンに出品する作品を制作するため、ここに2ヶ月間滞在しました。

そこで描いた絵こそ、印象派誕生の契機となった重要な作品でした。

カエルの池

かつてセーヌ河畔には、グルヌイエールと呼ばれる場所がいくつかあり、現在オルセー美術館のあるあたりもそうです。

この呼び方は、階級差別からきていると考えられています。

というのも絶対王政期、ヴェルサイユに閉じこもった王侯貴族たちは、セーヌ川沿いの貧民街の住人を「蛙ども」と呼んでいたからです。

醜い蛙が泥の中で暮らし、騒々しい鳴き声をたてていると言いたいわけです。

けれど最終的に勝ったのは王侯貴族ではなく、蛙どものほうでした。

そこで一種のシャレとしてレジャ ー・スポットに自らの名「カエル」を残しました。

「ラ・グルヌイエール」は、「カエルの池(カエルの棲む場所)」という意味で、「カエル」は素行の悪い娘の隠語でもありました。

モネとルノワールの絵では、いかにも健康的な行楽池として描かれていますが、娼婦がたむろする享楽的な場所でもありました。

カマンベールと呼ばれた小島

 

絵の中にあるような1本の木が植えられた小さな人口の浮き島のことを「植木鉢」と呼んだり、「カマンベール」と呼んでいました。

この人口の小島を中心に、水上カフェや貸しボート小屋があり、週末になるとパリから大勢の人々がやってきました。

 

右側にあるのが、廃船を利用した水上カフェで、屋根が飛び込み台になっていました。

ラ・グルヌイエールは、毎週木曜夜になるとダンス場に早変わりしましたが、それが可能だったのは、最終列車が夜の11時15分まであったからです。

帰宅の足が確保されたことにより、庶民も夜遊びで遠出することができるようになりました。

2人の違い

モネの興味は、人ではなく、ゆらめきや光によって様々な色を見せる水面に興味を持ち、水面のさざ波の中の反映を縞模様として描きました。

また、絵具の筆致によって、空間の遠近感を示しています。

近くの水面の反映は長く、遠くのものは短く描いています。

ルノワールの興味は、にぎやか幸せなひとときを描いています。

色彩分割

この作品は、モネとルノワールによって、印象派を象徴する技法「色彩分割(筆触分割)法」が生み出された記念すべき作品です。

2人は描く対象が持つ固有色ではなく、光や大気などによって影響された変化しやすい色を描こうとしました。

対象に対してではなく、自分の視覚に対して忠実であろうとしました。

つまり、見たものをそのまま描くのではなく、自分が受けた印象に対して忠実であろうとしました。

彼らは永遠に変化し続ける自然の、自分の視意がとらえた瞬時性を記録し、キャンバスの上に造形的に表しました。

しかし、絵の具は混ぜれば混ぜるほど暗い色になってしまいます。

減法混色(減算混合)と呼ばれる現象です。

水面の反映や鮮やかな色彩を表すため、絵の具を混ぜず純色を1つずつ併置していきました。

これが色彩分割法です。

絵の具と絵筆の進歩がこれを可能にしました。

中身を押し出せるタイプの金属製の絵具チューブは戸外でも、すぐに柔らかな絵具として使うことができました。

また、絵筆用の金属製フェレールと呼ばれる金環により、それまでの丸筆とは違い、穂先の平らな筆が量産されました。

平筆は、平坦なタッチを残して、画面を均等な厚みで塗っていくことを可能にしました。

色彩分割とは、12世紀前半の光学理論を基にキャンバスに細かい筆触で並べた2色が距離をおいて見ることによって、視覚の中で混合して見えることを利用した技法です。

視覚混合または網膜混合といわれる現象です。

つまり、絵の具を混ぜずに、バラバラに即興的にカンヴァスの上に並べたこの色彩分割法を使うことによって、減法混色で自然の明るさを失うことなく、自分自身が観察した自然の中の微妙で概細な光と色彩の移ろいを、映し出すことができました。

その結果、印象派の作品は当時としては異様なほど、眩しいまでに明るく、筆触が目立つものになりました。

モネにとって、この技法を探究するのに水面は格好の題材となりました。

こうしてモネ は生涯にわたって色彩分割法を探究し続け、水面を描き続けることになります。

こうして絵画は印象派による色彩分割法によって、「何を描くか」ではなく、「どのように描くのか」が重要になる近代絵画の時代へと突入していきました。

そして2人の 《ラ・グルヌイエール》は、印象派を象徵する3大要素である戸外副作、色彩分割法、そして現代生活のすべてが含まれた記念碑的な作品でした。

しかし、第2回印象派展に出品され、現在メトロポリタン美術館が所有するモネの《ラ・グルヌイエール》は、実はモネにとって当初は1870年のサロンに出品するための習作だったようでした。

ただし、モネはこの年のサロンには入選しておらず、「完成作」も現存していません。

完成作の「完成度」が、メトロポリタン美術館所有の習作よりもサロン向けの仕上がりだったことは想像がつきまが、娼婦がたむろする労働者向けの行楽地を主題にしたモネの「現代性」および「革新性」は、決してこの時代のサロン向けではなかったことだけは確かでした。

その他の「ラ・グルヌイエール」

モネ

クロード・モネ《ラ・グルヌイエールの水浴》1869年

モネは、中景の人物や遠景の木々を簡略化して描いています。

当初モネは、上の絵を「できの悪いスケッチ」だと思ったそう。

たくさんのボートが繋がれていることからもわかるように、当時ボート漕ぎが大勢いました。

彼らは、火遊びの相手として女性たちに人気でした。

クロード・モネ《ラ・グレヌイエール》1869年

こちらは破壊されてしまったため、白黒でしか情報が残っていません。

ルノワール

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年

2人で並んで描いた他の絵

ピエール=オーギュスト・ルノワール《花瓶の花》1869年頃

クロード・モネ《花と果物のある静物》1869年

モネの作品はルノワールのものに比べ、ブドウと籠が添えられ、格子縞のテーブルクロスが描かれています。

ルノワールの作品は、花そのものを画面いっぱいに描いており、対象物の存在感や生の充実感を描こうとしています。

迫りくる環境汚染

アルマン・ギヨマン《イヴリー河岸の日没》1873年

田舎は、のどかなだけにとどまりません。

産業化の波が押し寄せていたことは上の絵でもよくわかります。

ピクニック場所や水浴場にも石油やゴムの臭いが漂っていたことについて、不平の言葉が多く残っています。

また環境問題への意識も薄く、排水処理どころではなく、土壌や川や大気の汚染は凄まじいものでした。

なのでブルジョワたちは、セーヌ河畔よりもっと遠くの、もっとお金も暇も必要な、ノルマンディーの海辺まで出かけました。

メアリー・カサット《海辺で遊ぶ子どもたち》1884年

カサットや、モネの師ブーダンの絵を見ると、ドーヴィル、トゥールーズ、エトルタといった高級リゾート地の華やかな雰囲気がうかがえます。 

ウジェーヌ・ブーダン《ドーヴィルの海水浴》1865年

現代のようなリゾート・ファッションはまだ生まれていないため、彼女たちの装いは舞踏会でのそれとほとんど変わりませんが、すでに大気浴の大切さをよく知っていた、それが肝心です。

これまで支配階級に属していた女性たちは、大きな城の奥の間で終日過ごし、換気の悪さで蔓延した結核などにより、長生きできませんでした。

自分たちはそうはなりたくない。

というわけで、新時代はまた、健康志向の時代の幕開けでもありました。